造血幹細胞採取

台風が過ぎていい天気にはなりましたが、と絵も暑い日が続くのでしょうね。熱中症になって体調を崩されている人も多いようです。水分はしっかり摂って、やはりエアコンはしっかり使って熱中症から自分の命を守っていきましょうね。
写真は病室の窓から見える右大文字山です。今年は五山の送り火いつも通りに行われるのでしょか?
ひょっとすると、私はここから五山の送り火、右大文字を見ることになるのかなあと思っています。
さて、今回はこれから私が臨む「造血幹細胞採取」に関して少しお話ししたいと思います。あまり関係のない方が多いと思いますが、参考にして下さい。
私は、5クールの抗がん剤投与によって、下垂体近傍にあった悪性リンパ腫による腫瘍は、造影MRI上では消失し、「完全寛解」状態になりました。
今回、入院して治療しているのは、寛解後、もし残存するがん細胞があればそれを叩く、言ってみればとどめを刺す治療、「地固療法」を行うのと、その時に副作用として出る骨髄抑制を利用して、最終的目標である、「完治」に向けた自家血幹移植の際に使用する末梢血幹細胞の採取という二つの目的で入院治療しています。
地固療法で持ちいたのがキロサイドです。大量のキロサイドとは中枢に移行する量のキロサイドと言うことです。この抗がん剤投与を6月30日、7月1日の2日間にわたって投与しました。そして今、造血幹細胞の採取のタイミングを計っているところです。
造血幹細胞は、骨髄が抑制され最低値になった後、回復する際に末梢血内に漏れ出てきます。この漏れ出た造血幹細胞を採取します。
その時に白血球を増やすお薬がG-CSF(顆粒球コロニー形成刺激因子製剤)です。
白血球を増やす際に造血幹細胞も増えます。これを採取します。
造血細胞移植ガイドラインー造血幹細胞採取(第2版)によると、今回のように化学療法後の造血回復期にG-CSFを投与する場合、化学療法終了後、少なくとも24時間以降からG-CSFを投与することになっています。私はキロサイド投与後3日後から連日投与しています。
そして造血幹細胞を採取する時期でが、二つの場合があります。
一つは、末梢血のCD34陽性細胞数が20/μLを超えるとき。
もう一つは、白血球数が5000/μLを超えて、かつ血小板が75000/μLを超えた時です。
まだまだ私は骨髄抑制が来る途中です。7月6日の時点で、白血球数が3800/μL.血小板が107000/μLです。白血球数の3800/μLはG-CSFを投与してでの値です。血小板が107000/μLと減少しているので、骨髄抑制は来ているはずです。これから一旦最低値になり、そこから回復して白血球数、血小板数が造血幹細胞の採取基準に当てはまる時期に採取が必要となります。今のところ、7月14日、15日の2日間で採取する予定です。
さて、自家血幹移植に必要な造血幹細胞の数ですが、採取の目標は2×10の6乗個です。そうすると74㎏の場合、148×10の六乗個、1億4800万個必要と言うことになります。
今回の1クールで必要な量が取れない場合は、地固療法の2クール目で同様の治療をすることになります。
さて、造血幹細胞を採取することをアフェレーシスと言うそうです。
この際、透析の要領で採取していきます。
造血幹細胞を採取する際は「血球成分分離装置」を用います。体から血液を取り出し(脱血)血球成分分離装置を通して、それ以外の血液はもう一度体に戻します。(返血)この脱血、返血のための血管ルートが必要になります。採取する血管は太い血管を確保します。十分な太さの血管でないと、脱血不良を起こしてしまい、時間がかかるだけでなく、十分な造血幹細胞を採取することができなくなってします。
採取のために推奨されている穿刺部位は肘静脈、肘のところの静脈です。どうしても血管を確保できない場合は、大腿静脈を使うこともあります。経静脈や鎖骨下静脈からの穿刺は、穿刺のリスクもあるため避けるようにしています。さて、脱血用と返血用の2本のルートが必用なので、造血幹細胞を採取している間は両手を使うことができません。約3~4時間かけて採取していきます。
さてアフェレーシスを行うにあたっての有害事象があります
一つは、採取中に血液が固まらないように抗凝固剤を使います。ACD液と言うのを使いますが、この中に含まれているクエン酸によるクエン酸中毒があります。ただ、これに関してはグルコン酸カルシウムによってカルシウム駅の持続注入することでほとんどが予防できます。
もう一つが、血管迷走神経反射です。徐脈になることもあり、採取中は心電図モニターなどを装着して管理する必要があります。
最後に、アフェレーシスによる血小板の減少があります。
こういった有害事象に気を付けながら造血幹細胞を採取していきます。
さて最後に、造血幹細胞の採取の目標です。
自家血幹細胞移植に必要な造血幹細胞数は、2×10の6乗/kgのCD34陽性細胞です。
74㎏とすれば146×10の6乗個、1億4800万個の造血幹細胞が必要となります。
1回の採取で十分な量を採取できることもありますが、今回私は2日間に分けて2回採取します。もしこの2回でも十分な造血幹細胞が採取できない場合は、次の2クール目の地固療法の時に採取します。できれば今回1回で十分な造血幹細胞が採取できればいいなあと思っています。
私の「情操」を育んだ想い出の甲府

前回「絵が描けるということ」というブログの中で情操教育という言葉が出てきました。今回、その「情操教育」に関して少し調べてみました。
「情操教育」を調べると、「感受性が豊かな幼少期に心や人間力を育てる情操教育を行うことが大切。」と書いてありました。
「情操」に関しては、前回も調べた内容をお話ししましたが、「優れたものや尊いものに触れたり、美しいものを見たりしたときの感動する豊かな心のこと。」と説明してありました。この「『豊かな心』には芸術的な感性だけでなく、家族への愛情やお友達への思いやり。他人を尊敬する姿勢。良いことを行おうとする気持など」も含まれるとしています。
この子供の「情操」をいろんな方面からアプローチをして育てていくことが「情操教育」であると描いてあります。
「情操」を身に着けることで、「自分で物事を考える力や、価値観、道徳、協調性と言った感性を形成するために重要な役割を果たすため、子育てに取り入れることを進める。」といてあります。
さらに、「美しいものを『美しい』と感じる心を育てることで、豊かな感性や個性、想像力などを育むことができる。」。その育まれた力は「自分の想像力、創造力に自信が持てるようになり、芸術への興味、関心を高めることで、勉強や仕事以外にも打ち込めるものができる可能性がある。」としています。
さてではどんなことをしたらいいのかです。調べたものには4つのことが挙げられていました。
①自然(植物)や生き物に触れる。
②スポーツをして体を動かす。
③絵本を読み聞かせる。
④音楽や芸術に触れる。
の4つです。
され、私の母が私が絵を描かなかったことに、学校から「情操教育ができていないんではないですか?」と言われたときに、家に帰ってきたとき「失礼しちゃうわ!」と言った母。
母が私をここまでに育ててくれるのにしてくれた「情操教育」はどんなものかなあと思い返してみました。
私の「情操」が一番育まれた時期は、やはり山梨県の甲府市に住んでいた時だと思います。
私の父が、甲府市の甲府市立病院の外科部長として勤めたのが私が3歳~4歳の頃でした。最初に住んだ社宅が、伊勢町という町です。近くに太田町公園があり、正ノ木祭が開催され良く行ったものでした。私が甲府に行ったときはその太田町公園の隣に甲府市市立病院がありました。しばらくして移転しました。移転した跡地に図書館?ができてその屋上から初めて土星の環っかを見せてもらうイベントにも行った記憶があります。最初の自宅はその太田町公園の近くでした。
真ん中に公園があり、盆踊りなんかをそこでしていました。公園の周りの子供たちが年齢差なく皆で集まり遊んでいました。上級生が小さな子供たちまでみんな集めて遊んでくれて、遊び道具の作り方や遊び方を教えてくれました。あちこちの家を駆けまわって遊んでいた気がします。公園には紙芝居が来て、そのころは「黄金バット」?だったかなあと思います。紙芝居の後はクイズ。正解すると水飴やせんべいをもらった記憶があります。公園の周りにはさわがあり、そこでザリガニ取りなんかもしていました。
甲府市立病院の建て替えに伴って社宅も変わりました。今度は住吉町。自宅の地宅には荒川が流れていました。河川敷には牛をしていて、近くには牛舎もありました。自宅の裏には桑畑。桑の葉はお蚕さんが食べるので、桑の実は食べてもいいかと思い、取って食べたりしていました。近くには池もあり、魚釣りなどして遊ぶ。荒川の河川敷には友達と一緒に秘密基地を作りに行く等、本当に自然の中で思いっきり育ったという感じです。
甲斐犬と言って山梨県の犬がいます。真っ黒な犬でした。そのころは放し飼いにしたり、荒川の河川敷でともに遊んだりしました。出産もあり、動物たちとの触れ合いもありました。
音楽や芸術に関しても、甲府にいたころはピアノを習っていました。バイエルが終わるころ、やっぱり遊ぶ方がいいと止めてしまいました。今から思うと続けておいたら良かったと、このことは後悔しています。ただ、母はいろんなコンサートに連れて行ってくれました。
母は、ダークダックスが好きで、甲府の市民ホールに公演に来た際は連れて行ってくれたり、ウイーン少年合唱団のコンサートや、盲目のヴァイオリニストのコンサートなどにも連れて行ってくれました。
絵本は読んでくれていたのかもしれませんが、あまり記憶にはありません。
こんな感じに、私の「情操教育」は甲府にいる間に、母が積極的にしてくれたこと、自然にできたことなどで、十分にできていたのだなあと思いますし、甲府にいる間に「情操」が養われたんだなあと思います。
何か今回は「競争教育」と言うよりは「甲府の想い出」になってしまいました。でもとても良い環境を与えてくれていたんだなあと思います。
今、悪性リンパ腫の治療を行っています。今回もキロサイドを投与して、骨髄が抑制されていくのを「待つ」。そして今度は骨髄が回復するのを「待つ」というように、「待つ」が大切な治療です。しっかり待って、タイミングを合わせて自家血幹移植の際に使う造血幹細胞を採取する。そういった治療になります。
その大切な「待つ」と言う時間を、私は「絵を描く」という新しいものを生み出すことで「待つ」ことができる。ここが私の強みだと思っています。
今の私をここまで育ててくれた両親に感謝です。
絵が描けること

今、入院中に水彩画を描いています。
寛解を目指す前回の治療の時、入院中何かしようかなあと考えた時に、「そうだ絵でも描いてみよう。」と思い書き始めました。
全部で5クールの予定で、1クール目は緊急入院に引き続いての治療なのでそんな余裕はありません。2クール目も入院中に絵を描こうなんて言う考えは、まったく浮かんできませんでした。3クール目になってようやく余裕も出てきたのか、「よし、入院中絵を描こう。」と思い経ちました。
病室で絵を描く。ちょうどよいことに以前も紹介したことがあると思いますが、水彩色鉛筆を持っていました。見た目は色鉛筆ですが、色鉛筆で塗った後を、濡れた筆でなぞると水彩画っぽくなります。又直接濡れた筆で色鉛筆の先をなぞり、色をとり塗る方法もあります。今はどちらかと言うと後者の方法で描いています。本当に手ごろで、直ぐに使えて、後始末も簡単。入院中にはもってこいです。
そんなことで3クール目、4クール目、5クール目と一枚づつ書いていきました。今回の地固療法では、準備期間があったので、治療前から描き始め、抗がん剤の投与が終わった今の段階で3枚も書くことができました。だんだん水彩画を描くコツをつかんだようで、いいペースで描いていけるようになりました。
下書きから途中経過を何回か写真を撮っておいて、動画にしてYouTubeにもアップしてみました。良かったらご覧ください。なかなか楽しい作業です。絵が仕上がると、主治医の先生にもサインをいただいて完成にしています。
さて、昔から絵を描いていたわけではありません。「嫌いではない」と言った程度だったような気がします。
自分が絵を描いたなあという記憶は、小学生の頃、山梨県の甲府市にいたころだったと思います。そのころの漫画は「鉄腕アトム」だったり、その次に連載された「ジャングル大帝レオ」でした。その漫画を見ながら、アトムやレオの絵を描いていたような気がします。
そのころのことで、今も覚えている思い出があります。
小学生の頃、絵は図画工作の時間に皆で描いていました。しっかり時間をかけてということなのだと思いますが、図画工作の時間は2時限の枠がとられていました。
ある時、私はその2時限の間に全く絵を描かずに提出しました。
そのことに関して、後から母が学校に呼び出されました。そこで言われたのが、「2時限も時間がとってあるのに何も絵を描かずに提出するということは、ご家庭での情操教育が悪いんではないですか?」と言う内容だったようです。
母が帰ってきて、こんな風に言っていました。「情操教育がなってないんじゃないのか。何てこと言われたけど、失礼しちゃうわよね!絵と言うものは、描きたいという気持ちにならないと描けるもんじゃあないわよね。ほんとに。」と。情操教育が悪いんじゃないですかと言われたことに、どうしたらいいですかではなく、「失礼しちゃうわよね。」の反応。母らしいと思うのと、今から思うと、描く時はちゃんと描きなさいねと言う意味が込められていたのかなあと思います。
しばらくたって、痰飲の先生の似顔絵を描くといった授業がありました。どうしたことかその時に書いた絵は、特賞を取って飾ってもらいました。
やはり気が載っているときとのらない時って会いますよね。それが授業でも。
そんな描きたくない時に描かなかった私は、母は起こることなく、「失礼しちゃうわよね。」で済ます。今更ながら、すごい母だったんだなあと思います。そして、私のことを信じ、自分のことを信じ、「待つ」と言うことをしてくれたんだなあと思います。そのことに感謝。
今、絵が描けるのも、こういった母の教育があったからなんだなあと思います。
「情操」を調べると、優れたものや尊いものに触れたり、美しいものを見たりしたときに感動する豊かな心のこと。
美しいものを「美しい」と感じる心を育てる。そうすることによって豊かな感性や個性、想像力などを育み、その結果、自分の想像力、創造力に自信が持てるようになる。
こういったことをしっかり母は私に教えてくれていたんだなあと思います。
7月になりました。今の私の状況報告。

皆さんこんにちは。渡邉医院の渡邉です。
梅雨があったのかなかったのか。本当に梅雨らしい梅雨はなく梅雨明けしてしまいました。そして連日の暑さ。熱中症に記を付けて、水分はしっかり摂って、エアコンも入れて体調管理してくださいね。
後、台風4号が近づいてきています。来週7月6日水曜日頃近畿地方に近づくような予報が出ています。台風にも注意してくださいね。
私の今の状況を少しお話ししておきます。悪性リンパ腫の治療のため抗がん剤による化学療法を行ってきました。「完全寛解」を目指して5クールにわたって抗がん剤投与を行ってきました。その結果「完全寛解」になりました。
さて、今入院しています。今回は、「完治を」を目指す治療を行っています。「地固療法」です。
「地固療法」は「寛解」してももし残っているがん細胞があればそれを叩くのが目的です。言ってみればとどめを刺すといった治療です。
使う抗がん剤はキロサイドです。キロサイドを2日間以渡って12時間毎計4回の投与です。これを2クール行います。
すでに、6月30日と7月1日に4回の投与を終えました。今のところ強い副作用もなく、食事も美味しくいただいています。ただ、これから骨髄抑制が来ます。
琴髄抑制に伴う血球の減少ですが、白血球ですと抗がん剤投与後1週間から2週間で最低値になります。血小板は、少し遅れて2週間から3週間で最低値になります。赤血球は寿命が長く120日です。したがって投与後2週間から1か月かけて緩やかに減少します。
骨髄の回復を待つことになります。この際にG-CSF(顆粒球コロニー形成刺激因子製剤)投与を行います。
さて、今回の治療のもう一つの目的が最終的に行う「自家血幹移植」に向けて造血幹細胞の採取です。
骨髄が抑制されて回復する際に、この造血幹細胞が末梢に漏れ出てきます。この漏れ出てきた造血幹細胞を採取すします。2日間にかけて採取していきます。今回で「自家血幹移植」をおこなうのに十分な量の造血幹細胞を採取できれば、造血幹細胞の採取は今回1回きりです。ただ十分に採取できなかった場合は、次回2クール目のキロサイト投与による「地固療法」の際に採取することになります。
いずれにしてももうしばらく時間がかかります。しっかり「完治」して復帰して、「シン・渡邉医院」を再開したいと思います。
当初考えていた9月1日再開は少し難しいと思います。申し訳ありませんがよろしくお願いいたします。
Twitterでの相談は現在も行っています。治療の関係で直ぐにお返事できないこともありますが、必ずお返事を出しますので、何かお尻の具合で心配なこと、わからないことがあれば、遠慮なく相談して下さいね。
7月2日 渡邉医院 渡邉賢治
母は元気!

昨日、木曜日の夕方に妻が、グループホームに入所している母を見に行ってくれました。
華の今の状況と今後のことに関して施設の方との面談が目的でした。
母もだいぶ施設にも慣れてきたそうです。妻がLINEで送って来た母の顔は元気そうで、妻は「笑ってたよ。」と教えてくれました。
3月6日の日曜日は、少し母が微熱があったので一緒に母の家に泊まることにしました。私が右目の動眼神経麻痺になった日です。念のため月曜日の朝、物が二重に見える中、片目をつぶれば普通に見えるので病院に連れていきました。母は何んともなく、ホッとして母の自宅に帰った後、知っている病院の先生から、そんな具合なら今すぐ緊急外来に来なさいとおっしゃって下さったので、行くことにしました。その時はしんどさもあって、母をどうするか等考えることもなく、タクシーで病院の救急外来を受診しました。ただ、母は認知症がかなり進んでいて、自分のことは何もできません。ですから放ったままにはできません。そこで、担当のケアマネさんに頼んで母を何とかしてほしいと電話すると、直ぐに母の家に行き、小規模多機能でのお泊りをさせていただくことができました。妻も仕事をしていることもあって、本当に助かりました。ケアマネさんも「落ち着かれるまで、小規模多機能の方で尾麻生狩りするのでご心配なく。」と。本当に感謝です。
これまで小規模多機能に月曜日から火曜日はお泊り、水曜日は日帰り木曜日から金曜日はお泊り、そして土曜日曜日は日帰り。日曜日は母と私の二人と言ったパターンが基本でした。仕事や会議などの関係で、お泊りの日が多くなることもありました。
小規模多機能に母が行くときは、朝6時半ごろに母の家に行き、母を起こし、そして着替えてもらう。ご朝ご飯を食べてもらっている間に場合によっては掃除と洗濯。そして7時20分頃小規模多機能に送っていって、それから診療所に仕事に行く。迎えに行くときは、診療所での診察が終わり午後18時過ぎに迎えに行く。そして帰るとまずは寝巻に着替えてもらい、母は夕食を食べて帰ってくるので、一緒にテーブルに座り、母はテレビを見ながら私は食事。午後22時ごろ母が寝るのを待って自宅に帰る。日曜日は朝6時半ごろ同じように母の家に行って様子を見た後、入院している患者さんや手術をしたばかりの患者さんを診察しに診療所に。診察が終わったら母の家に。こんな感じの生活をしていました。これが」リズムなっていたのでこんなもんなんだろうなあと思いながら母の介護をしていました。
そんな母をほったらかしに家に残しておく、本当に心配でしたが、周りの方のおかげで本当に助かり感謝しています。
3月29日に私は緊急入院しました。母もほぼ同じ時期に、その時通っていた小規模多機能の2階3階にあるグループホームに空きができて、そこに入所することができました。本当に良かったと思います。母のことを心配することなく入院することができました。
3月7日以降、まったく母の顔を見ることはありませんでした。1クール目が終わった時だったと思いますが、一旦退院した際に母を面会しに行きました。5分間程度だったと思います。母は一言もしゃべらず下を向いていました。いつも一緒にいるときも村内喋ることなく二人で過ごしていました。「いつもの母だなあ」と思い帰りました。
そして今日の写真でした。
思わず写真を見て元気そうで、ほっと安心しました。そのせいもあるのか、急に涙が出てきて、なかなか止まりませんでした。早く完治して、そしてコロナが落ち着いて面会し、母の顔を見に行きたいと思います。
術後1か月も経ったのに、まだスッキリしない!

皆さんこんにちは。渡邉医院の渡邉です。
今「地固療法」のために大量のキロサイドを投与するのですが、今その真っ最中です。キロサイドが頑張って、「完全寛解」しましたが、もし残っている悪性リンパ腫のがん細胞があるならば、しっかり叩いて最後のとどめを刺してきてねと願いながら治療を受けています。「完治」に向けた第一歩です。頑張りますね。
さて、最近相談で多いのが、術後約1か月ほど経った方からの相談です。
そしてその内容に関しては大きく2つに分けることができると思います。
一つが、肛門の痛み等、傷がちゃんと治っているのかが心配で相談される方です。
例えば、「1か月経ったけど、まだ痛みがある。」とか「突っ張った感じがする」や、「肛門の周囲がひりひりする。」など肛門周囲の症状が心配で相談される方。
もう一つが、排便に関する相談です。
例えば、「排便がしにくくなった。」とか、「そこまで便が来ているのに頑張っても出ない。」また、「便が細くなった。」などです。
いいずれの相談も、思い切って決断して手術をしたのに、1か月経っても何かスッキリしない。症状が有る。手術が失敗して、うまく治っていないのではないか等、せっかく決心をして手術をしたのにスッキリしないという相談です。
なかなか肛門の手術、術後の痛みや出血など、手術をする前から心配なことが多いです。そしてなかなか受診し難い診療科です。やはり手術を決心される方は、これま辛かった毎日の生活から解放されて、今回でスッキリ治してしまおうと決心された方ばかりです。やはり1か月経ってもスッキリしない。心配になられることはとても良くわかります。
さて、術後1か月後ですが、排便時の痛みはだいぶ楽になった、場合によっては痛くない。排便時の出血はほとんどないか全くないといった状態までにはなっていると思います。でも肛門の周囲がまだ痛む、排便がスッキリ出ないといった症状がまだ残っているということだと思います。
内痔核の場合、術後約3~4週間、約1か月から1カ月半程度で傷はふさがります。
この「ふさがります。」がポイントです。
やはり「傷がふさがった。」と「傷が治った。」は別です。傷がふさがったからと言って治ったわけではありません。
転んだ怪我だったり、切ったりした傷もそうですがふさがっても傷の硬さが最初残ります。その硬さが突っ張ったりピリピリしたりします。これと同じです。
肛門の手術も傷がふさがったとしても、傷の硬さが残ります。この硬さが、肛門は便が通るところなので、突っ張った感じがしたり、ピリピリ痛んだりします。ただ、この硬さもだんだん取れて柔らかくなってきます。そうすると突っ張った感じや痛みは取れてくると思います。ですから傷がふさがったと傷が治ったは別で、ふさがってからもどんどん治っていきます。焦らずもうしばらく経過を診ていきましょう。
もう一つの心配事がの状態です。
どうしても傷の硬さがあると出しにくくなり、細い便になることがあります。
これは人間が排便をするときに、肛門上皮が外に出るような感じで便が出ます。ただ肛門が開いて便が出てくるわけではありません。この、排便時に肛門上皮が外に出るような動きをすること、これを本当は脱肛と言います。人間は具合よくすることで気持ちよくスッキ便を出すことが出ます。
どうしても肛門に傷があったり、またジオンによる痔核硬化療法をすると、この脱肛がしにくくなります。そして、ただ単に肛門が広がっての排便になってしまいます。そうすると、そこまで便がきているのに出しにくい、頑張って出すと細い便が出るといった具合になります。この症状も本当の意味で治っていくと具合よく脱肛しながら便が出るようになるので、スッキリ出るようになります。
何回も繰り返しますが、やはり「傷がふさがった。」のと「傷がなおった。」では全く別です。
まだまだ1か月半、焦らず治していき、やはり大事なことは、気になる症状が有れば主治医に診てもらうことです。必ず自分が感じる症状が出るのには原因があります。その原因がこのまま様子を見ていいものなのか、もうこれ以上診ていても具合は良くならないので、スッキリ治すのには何か処置が必要なのかなどを主治医に効き相談することが大切だなあと思います。また何かあれば相談してくださいね。
「命のトマトスープ」

今日もとてもいい天気です。入院して病棟にいると、エアコンも効いていてとても快適な環境にいます。3月29日に緊急入院してから、私にとっては全く季節の移り変わりはありません。一旦退院した際に朝体力アップのために散歩をするのですが、これまでの退院ではあまり変化はありません。今退院して散歩すると全く違うのでしょう。
梅雨も度超え逝ってしまったのか、あまり雨も降らずに梅雨明けしてしまいました。少し水不足など心配です。
さていよいよ今日から準備万端で「地固療法」と「造血幹細胞採取」の治療に入ります。昨日そのための準備として、中心静脈カテーテルを挿入しました。
今日から2日間にわたって12時間ごとに計4回の大量のキロサイトを投与します。副作用を軽減するために、キロサイト投与前にソル・メドロール(ステロイド)を投与します。
そんな治療開始の日に「命のトマトスープ」が朝食に出てきました。
今回はどうして「命のトマトスープ」なのかをお話ししたいと思います。
さて、私は3月29日に緊急入院しました。本当に全身の状態も悪い状態でした。今回のことの発端は、3月6日に急にものが二重に見える複視になりました。診察を受けると原因がわからない「突発性右動眼神経麻痺」という診断でしばらく経過を診ることになりました。
しかしその後もどんどん全身状態が悪化。複視だけでなく、食事もあまり食べれない。少し食べたら直ぐにソファーに横になって休む。そんな日が続きました。私も「動眼神経麻痺ってこんなに辛いんだ。」と思いました。
しかし全身状態はさらに悪くなり、渡邉医院を休診にしたり、診察時間を短くしたり。またせっかく手術の予約を取り予定を立ててもらっていた患者さんにキャンセルの連絡をしたりしました。診療所に行っているときも、診察が終わると病室で横になって休んでいたり、院長室で休んだりしていました。最後の方では、患者さんが来られたら、院長室などに休んでいる私をスタッフに呼びに来てもらっての診察でした。
あとから聞いたのですが、そのころはスタッフもいつ救急車を呼ぼうかと思いながら仕事をしていたとのことでした。
3月29日が予約をしていた再診日でした。しかし、3月28日の夜中、もうどうしてもだめだと思い、夜中で申し訳なかったのですが救急車を呼び搬送してもらいました。頭部CTをとっても特に問題なしと言うことで点滴をして、一旦自宅に帰宅しました。今から思うと、この時点ではある程度脳浮腫が来ていたのではないかと思います。
3月29日も午前中、何んとかと言うか無理やり診察を行い、昼から受診しました。血液検査の結果で電解質もホルモンもばらばらな状態。よく働いていたもんだと思いました。造影MRIを行うと、下垂体近傍に腫瘍を認めました。この腫瘍が今回の原因。そしてその腫瘍は悪性リンパ腫が下垂体近傍に腫瘍として現れた中枢限局性の悪性リンパ腫でした。緊急入院をし、治療が始まりました。悪性リンパ腫は血液の癌です。
腫瘍を摘出すればいいというものではありません。したがって抗がん剤による化学療法を行うことになり、今に至っています。これまでの治療、抗がん剤が本当によく効き、私にもあっていたようで、本当に良くなり、今は「完全寛解」の状態にまで回復しました。
さて、「命のトマトスープ」ですが、入院して1日2日はほとんど食事はとれませんでした。そして三日目の朝、朝食の献立の中にトマトスープがありました。
スープなら飲めるかと一口飲んでみると、とても美味しかった。体に、そして心にしみ込んでくるようでした。そして生まれて初めて食事をしているときに泣いてしまいました。それも涙が流れるだけでなく、声を出してご応急しながらそのトマトスープをいただきました。
その時に「こんなに美味しく食べれるんだ。食事を美味しく食べれるってことは、こんなに幸せなことなんだ。」と感じ、感謝しました。本当に何気ないトマトスープです。でもそのトマトスープ、私にとっては「命のトマトスープ」です。トマトスープが出てくると、いつもそのことを思い出し、今でも目頭が熱くなります。
本当に何気ない日常の生活、その生活を送れること、そして美味しく食事がとれることに感謝しています。
このような経験して、「命のトマトスープ」と私は読んでいます。
その「命のトマトスープ」が治療の節目節目に出てきます。とても不思議です。そして今回地固療法が始まる当日にも「命のトマトスープ」が。何かあるのでしょうか?でも本当にここまで治して下さった主治医の先生方、また私を支えて下さっている皆さんに本当に感謝の気持ちでいっぱいです。もう一息で「完治」。一番大事なところでもあります。頑張っていきたいと思います。