3クール目の目標は、1枚絵を描くこと!
今日、3クール目の抗がん剤投与のために入院しました。
ゴールデンウイーク中は、とてもいい天気でした。2クール目が終わって、その後の経過も良かったので、一旦退院。自宅でのんびりしていました。天気が良かったので、外の空気を思いっきり吸い込もうと、賀茂川まで散歩したりもしました。私にとっては有意義なゴールデンウイークでした。
入院中、少し体重が減りましたが(本当は減って標準体重の近づいた方がいいのかもしれませんが、)、この退院中に、1.5㎏増加して準備万端での3クール目に向けての入院です。
今日は少し天気は悪いですが、私の心は快晴!昨日は、何か合宿にでも行くような気分入院の準備をしていました。悪性リンパ腫に対しての抗がん剤の治療と、その効果を期待して、気持ちはウキウキ、期待とやる気満々での入院です。
さて、今回3クール目の入院中の目標です。以前もブログでこれまで4回の入院に関してお話ししました。いいのか悪いのか、入院の回数が多いと、入院中どう過ごそうか?に対してちゃんと答えが出るようになりました。入院中の過ごし方が上手くなるのでしょうか?前回入院に際して、次に何をするのか。そんなことを「やること帳」に書いておく。そんなことをしています。
さて、今回3クール目の目標ですが、この2週間の間に1枚絵を描く。これが今回の目標です。
以前、私の描いた絵についてのブログをアップしたことがあります。これまで仕事などで忙しくゆっくり絵を描いている時間がありませんでしたが、結構絵を描くことも好きです。
大学時代は美術部でした。
そんなこともあって、今回の目標は絵を描くことです。
少しだけ絵の想い出をお話ししたいと思います。
それは大学時代のことです。
大学に入って初めて油絵を描くことになりました。これまで1回も油絵を描いたことはなく、一体どうやって描いたらいいものか、まったくわかりませんでした。先輩に聞いても、「自分の好きなように描いてみな。」と言うだけ。仕方がないので、周りの人がやっているのを見よう見まねで描いてみました。題材は、テーブルの上にリンゴなどの果実と、ワインのボトルなどを配置した静物画でした。
直接キャンバスに油絵の具で薄く下書きをして、それに油絵の具を上からのせていく。ちょっと違うなあと思ったら、さらにその上から塗り重ねていく。そんな感じで初めての油絵を描いていきました。
さて、美術は年に3回大きな展示会をしていました。春に大学付属病院のロビーを借り手の院内展。夏は画廊を借りての院外展。そして文化祭です。
今回初めて描いた絵は、一番初めに行われる大学付属病院のロビーを借りての院内展でした。
診察に来られた患者さんや入院している患者さん。また、医師や看護師、そしてそれ以外にも多くの医療従事者の方に診ていただきました。もちろん大学関係の方もいらっしゃいました。
そんな中、院内展が終わるころ、美術部の部長が私に近づいてきて、「渡邉君。君の絵を欲しいと言っている人がいらっしゃるがどうする。」と。一瞬何を言っているのかわかりませんでした。私、「欲しいて言って下さる人がいるんですか?」。部長、「そうだよ。」。私、「じやああげたらいいんですか?」。部長、「買いたいとおっしゃっている。」。私「え!」。「そんなん、初めて描いた絵だし、絵を売るプロが描いたわけではないのに。どうしたらいいんですか?いくらぐらいでうればいいんですか?」と聞くと、部長、「うーん、考えてみて。」と。キャンパス代がいくらだったかなあ?絵具どのくらい使ったかなあ?等と考えても全く値段をつけることができませんでした。そうこうしているうちに、部長が「1万円で売って欲しいとおっしゃっている。」と。その言葉にさらにびっくり。「え!1万円?」。「本当にいいんですか?」と。と言うことで、初めて描いた油絵が1万円で売れることになりました。本当にびっくりしたことと、本当に私が描いた絵を、その方は気に入って下さったんだという喜びが沸いてきました。
今はもう、その絵も私の記憶の中に残っているだけです。でも可能なら、もう一度その絵を観てみたいなあと思います。私の描いた絵のどこに魅力があったのか、今もその魅力が輝いているのか。絵を観ながら、その絵を描いていたころの自分を顧みてみたいものです。
と言うことで、今回3クール目の目標は1枚絵を描くこと。またかけましたら報告しますね。
腐食療法ー祖父の原稿よりー
前回、祖父が書いていた原稿の中の「痔核硬化療法」と「痔核の塗布腐食療法」のうち、「痔核硬化療法」に関してお話ししました。今回はもう一つの「痔核の塗布腐食療法」に関してお話ししたいと思います。
最近はもう腐食療法は行われなくなりました。渡邉医院でも行っていません。その理由の一つは、やはり腐食剤がどこまで広がるのか、腐食させたいところのみにうまく塗布できるか。また腐食剤で内痔核を壊死脱落させる方法なので、やはり壊死脱落する際に大量の出血を起こす可能性があること。また、腐食療法によって肛門に狭窄を起こす可能性もやはりあります。こういった理由で腐食療法は行われなくなってきました。ただ、痔核根治術やジオンによる痔核硬化療法などとうまく併用していくことで、より十分な治療を望むことができるのではないかとも思います。様々な治療方法を持ち、その中で患者さんにとって一番適しているものを使う。このことはとても大切なことですし、後で話しますが、祖父もこのことの大切さを強調しています。
腐食療法に関しては、その適応について祖父はこのように書いています。「第Ⅲ度の内痔核に対して、私(祖父)は手術による治療を原則として行っている。しかしながら、患者が他疾患を合併していたり、糧にの事情、あるいは安全な手術方法であるとはいえ、高齢者に対しては第一線開業医としては手術に踏み切れない場合にまま遭遇するものである。しかも患者の苦痛が痔核を取り除かなければとれぬ場合、特に痔核が広東只、還納しても再び脱出し疼痛を訴え、医学的に診ても根治療法が適応となり、患者もそれを希望するものに、私は次善の策として塗布腐食療法を行っている。」と適応を限定しています。
祖父がこの「塗布腐食療法」に関心を持ったのは、祖父が勤務していた加藤医院で、「来院する患者の中に時々腐食療法を以前に受け、その局部があたかも手術を受けたもののように見事に治癒しているものがあったため。」としている。
当初、腐食療法に使用する薬剤は、秘法とか家伝とかでその内容を知ることができなかったと記している。やはりその時代、肛門科にはその先生が持つ「秘薬」があり、それを表に公表することがなかったようです。
ただ祖父は、様々な文献等を参考にして以下のような腐食剤を作成した。
成分内容は
亜ヒ酸 4g 水酸化第2銅 1グラム 硫黄 0.3g
アネステジン 1g グリセリン 適量
以上を混合研磨し泥状にする。なお水酸化第2銅は、硫酸銅と苛性ソーダを反応させて作ると記載している。
使用方法は、
- 脱脂綿で作った紐で脱出した痔核の根部をはちまきをするように軽く締め付ける。
- ゾンデの平らな面の部分を使って痔核全体に腐食剤を塗布する。
- 痔核周囲の皮膚を適量の脱脂綿で保護。痔核の上も脱脂綿で覆い絆創膏で固定。
- 皿のその上からカット綿、T字帯で固定する。
経過中、分泌液などで腐食剤が付着しにくい場合には、硝酸銀を痔核表面に塗布すると良い。と記載してありました。
腐食療法施行後ですが、3日目頃には患部は暗褐色に変色し、6日目頃には痔核も縮小、疼痛も軽減。約9日目には一部壊死脱落する。約14日目には痔核はすべて脱落した。との記載がありました。
このような経過をたどって、腐食療法内痔核、特に嵌頓痔核は治っていくようです。
最後に祖父のまとめの部分の文章です。このことに関して私も同感です。このように書いてありました。
「肛門疾患の治療に際しては、保存的療法、非手術療法、手術療法にいたるまで、できるだけ多くの武器(治療方法)を持つよう努力すべきである。この多くの武器(治療方法)の中から、個々の患者に最も適した療法を選び治療するところに、現段階での肛門病専門医の使命があると考える。」と。
この言葉は、今も大切な言葉だと思います。
今回妹の大掃除のおかげで、貴重な資料がでてきたと思います。私も治療が落ち着いたら、ほかにもきっと貴重な資料が多く残されていると思います。見つけ出して、9月渡邉医院再開に向け参考にしていきたいと思います。
痔核硬化療法と戦争ー祖父の原稿よりー
「痔核硬化療法と戦争―祖父の原稿よりー」
さて今日は土曜日。仕事の方もいらっしゃると思いますが、いよいよゴールデンウイークも今日と明日を残すのみ。皆さん楽しい思い出作れましたか?
私もいよいよ、週明けの月曜日に再入院。3クール目の抗がん剤投与に入ります。
このゴールデンウイーク中、妹が実家に帰ってきて、実家の大掃除をしてくれました。その時に出てきた祖父の原稿。とても興味深く、そして面白いので、少し解説を入れながら紹介したいと思います。
今回のブログの題名ですが「痔核硬化療法と戦争―祖父の原稿よりー」と少しショッキングな題名になっています。祖父の現行の中に、戦争とかかわる内容があり、これに関しては後程紹介します。
祖父の原稿のタイトルは「痔核の非手術療法」です。その中身は二つの治療方法について書かれていました。一つは「痔核硬化療法」。もう一つは「痔核の塗布腐食療法」の二つの治療方法に関して、祖父が独自に開発した内容です。
今日は、その中で「j比較硬化療法」に関して紹介します。「痔核の塗布腐食療法」は次回に回したいと思います。
さて痔核硬化療法についてお話しする前に、今までわからなかったことが判明したことがあります。それは渡邉医院の開設のj引きでした。これまで、いつ渡邉医院を解説したのかを明確に記載してあるものを見つけることができませんでした。今回この祖父の原稿に開設時期が明記されていました。それは「S6年4月開業」と明記してありました。今年の4月で91年が経ったということです。そうすると、今回私の病気療養のために4月1日から渡邉医院を休止したので、渡邉医院91年の歴史に、一旦休止符を打ったことになります。9月の再開。渡邉医院100年を目指して治療したいと思います。
さて「痔核硬化療法」ですが、祖父は大正14年5月から昭和6年4月までの6年間、大阪の肛門科、加藤医院で手術による治療と痔核硬化療法を主とした治療法について指導を受けたようです。
この原稿の中に「輪ゴム結紮法」に関しての記載がありました。そこには、やはり輪ゴム結紮法の適応になる内痔核の患者さんが少ないと記載してありました。このことに関しては私も同じ意見です。良く患者さんから「診察を受けたら直ぐに、輪ゴム結紮法をされた。」と聞くことがあります。しかし、そんなに輪ゴム結紮法の適応となる内痔核は少ないです。「輪ゴム結紮しましょう。」と言われた際は、直ぐに和語目結紮はせずにほかの肛門科医にセカンドオピニオンすることが大切かなあと思います。
さて、昭和6年の開業以来祖父は第Ⅰ度及び第Ⅱドの内痔核に対して痔核硬化剤としてマグネシンを使っていました。今は痔核硬化剤としてジオンとパオシクレ―がありますが、その当時は、各肛門科独自の痔核硬化剤を使っていました。
マグネシンはマグネシウム粉末4gを100mlのグリセリンに懸濁させた懸濁液です。しかし、戦争が始まって、マグネシウムの入手が困難になってきました。そこで昭和7年にその当時まだ入手できた第2燐酸カルシウムのグリセリン懸濁液を祖父が独自に開発して試みると、マグネシンと同等の結果を得ることができたとのことです。現在は使っていませんが、この渡邉医院独自の痔核硬化剤、第2燐酸カルシウム・グリセリン懸濁液に関しては、戦後、昭和28年第8回日本直腸肛門病学会で報告しました。
その当時使用していた痔核硬化剤は4%第2燐酸カルシウム・グリセリン懸濁液で、グリセリン100mlに第2リン酸カルシウムを4gを懸濁させたものです。適応としては、現在のパオスクレ―とほぼ同様で第Ⅰ度及び第Ⅱ度の内痔核で、手術適応の第Ⅲ度の内痔核に対しても基礎疾患等があったり、根治術が難しいと判断した患者さんにも使用していたようです。痔核硬化療法の投与方法は、現在の痔核硬化療法と同様で、左側臥位で行い、内痔核周囲の粘膜下に1回につき1か所約0.3mlを3か所、計約1mlを使用。隔日に3回施行していた。氷河あれば追加投与をしていた。局注した部位の組織変化としてはパオスクレ―と同様に、硬化剤を投与した静脈周囲の線維性結合織の増生が強く、静脈は圧迫されたようになっていたとのこと。
このように、祖父は渡邉医院独自の痔核硬化剤を開発し内痔核の治療を行っていました。
さてタイトルの「痔核硬化朗報と戦争」ですが、祖父の原稿の中にこんな記載がありました。戦争の時期です。
「私は昭和20年4月に召集をうけ、孤島の陸軍病院に勤務した。」これは、昭和16年に医療関係者徴用令が発せられました。医師や看護師らが軍需工場、無医村などに強制的に勤務させる方針で、医師が軍医として戦地へ行く召集が広がっていった時期です。
祖父の原稿はこう続いて書かれています。「戦争が激化していく中、次第に隊員で痔核で入院し加療する患者が増加してきた。しかし戦局は苛烈となり、全員手術をすれば戦力の低下を期すことを憂い、痔核硬化療法を試みたいと考えたがマグネシウムが入手できず・・・」と。そして、「入手できた第2燐酸カルシウムを用いた第2燐酸カルシウム・グリセリン懸濁液を作り使用してみると、マグネシン注射同様の結果を得、患者を早期に原隊に復帰させることができた。」と
内痔核に対しての痔核硬化療法にも戦争の影響、戦争の影が見え隠れします。
今回は「痔核硬化療法」に関しての祖父の原稿を紹介しました。次回は「痔核の塗布腐食療法」に関してお話ししますね。
悪性リンパ腫になってつながりが強く、広がる。
ゴールデンウイークも後半。皆さんはどうお過ごしですか?
私は、悪性リンパ腫に対いて抗がん剤による化学療法を今行っています。順調に治療も進み、2クール目が終わりました。特に強い副作用もなく、現在はいったん退院して自宅で療養をしています。療養と言っても、普段通りの生活を送っています。
1回目の入院の際は、本当に心身共にぼろぼろの状態で入院しました。診断が悪性リンパ腫と確定し、本当に速やかに抗がん剤による治療に進むことができました。抗がん剤投与による副作用も強くなく、入院時や入院前と比べると、本当に元気になりいったん退院しまし。ただ、ぼろぼろの状態で入院、元気になったといっても、やっぱり自宅では少しだるさもあったりして、ソファーに横になったりして過ごしていました。それに対して今回は全く状況が違います。2クール目の入院の際は、元気で入院、そして強い副作用もなく元気に退院。いったん退院してきても前回とは全く違います。これまで通り、もっと言うと病気を発症する以前の私の状態よりもいい状態になっているような気がします。「仕事をしなくてもいいのかなあ?」と思うくらいです。でも、まだまだ2クールしか終わっていないので、今後に備えていきたいと思います。
さて、私が悪性リンパ腫に罹患してから、周りの人たちとのつながりが深くなったり、広がっています。
まずは、子供たち。娘は何かすごく気を使ってくれます。これまでも時々LINEでやり鶏していましたが、その回数が増えています。「頑張って!」といつも私に力を注いでくれています。息子に関しても、息子に関しては、これまでそんなにLINEのやり取りはなかったのですが、今の私の病状や経過をやり取りするようになり。息子らしいのですが、「了解。頑張って!」と極々短いやり取りですが、それでもこれまでとは違って聞います。
さらに、ブログやTwitter、Facebookで私の病状等をアップしていますが、それを見た肛門科の先生方がメールを下さったり、電話を下さり、励ましの言葉をいただいたりしています。
肛門科の先生のつながりも強く感じます。
また、本当に多くの方々から、励ましのメール等をいただいています。本当に感謝です。
入院中は、あまり人と話をする機会もないので、家にいるときは、今まで以上に妻と会話したり、電話がかかっていると、溜まっていた物を一気に吐き出す感じで、チョット多弁になってしまってもいます。
悪戦リンパ腫に罹患してしまいましたが、それ以上にこれまでよりも周りの人たちとのつながりが強く、そして大きく広がったと思います。私にとってはとても貴重なものを得た感じがします。
抗がん剤による化学療法2クール目を終えて。
さて、明日から3連休に入ります。今日私は悪性リンパ腫に対しての治療のため2クール目の抗がん剤による化学療法を行うため再入院し、今日が2クール目最後の抗がん剤を投与。2クール目の本当にとても順調に行き、強い副作用も出ずに、食事も美味しく食べられるほどです。かえって、これまで持っていた私の症状がだんだん取れていく。治療効果が実感となって現れる。このことは治療を受ける側にとっては、とても力になります。
血液検査でも大きな問題はなく、明日いったん退院。次は5月9日の月曜日に再入院して3クール目に入ります。今まで通りにいくかはわかりませんが、治っていく実感を楽しみに頑張って?いや楽しんでいきたいと思います。
さて今回のことを振り返り今の状況を描留めてみました。
- まず2月に人間ドックを受けて、脳ドッグでMRIを撮影。この時には異常を指摘されなかった。正常だったということです。
- 1)症状が目の症状であったこと、どうしても医療機関を受診せざるを得ない症状だったこと。いつの間にが広がり気が付いたら全身に広がっていったということなく、早い医療機関の受診であったこと。
- 2)症状が出た3月6日に撮影したMRIにも明らかな腫像は描出されなかったこと。ただ入院の際の造影のMRIではっきり映った腫瘍像を診て詳しく初診時の画像を比較すると「これかなあ?」という所見のみでたこと。
しかし、明らかに早期に腫瘍が見つかったこと。 - 3)脳の下垂体に腫瘍が見つかりこれが原因であること。症状等から悪性リンパ腫の可能性が高いこと。そして多くの診療科の先生方が、その確定診断を急いで行ってくださったこと。
4月9日に予定していた脳外科での生検手術の前に結果が出るように眼科の先生が目の手術をして下さり、目は見えるようになり、硝子体の中の浮遊物から悪性リンパ腫の確定診断ができたこと。したがって下垂体近傍に腫瘍として出現した悪性リンパ腫。全身にはそのほかの部位のリンパ節の腫脹はなし。といった確定診断になりました。 - 4)今より多くの組織をとる目的の脳外科での生検手術。これに関しては私はかなり迷いましたが、一つの決断を私自身ができるように先生方が情報を下さったこと。そして私の「生検はせず、早期に治療に入る。」という決断を尊重して下さったこと。
- 5)その結果早期に抗がん剤による化学療法の1クール目をかいしできた。
このようなことが重なり、今の私の状況があると思います。本当に感謝しかありません。
この流れはきっとすべての医療に通じているものだと思います。この経験を生かして、今後の治療そして、再開する渡邉医院に生かしていきたいと思います。
2クール目を終えて、私の思いを書いてみました。
少し短いですが、今回はこのへんで。
今、母を想う。
いよいよ5月になりました。ゴールデンウイーク真っ只中に入っていきます。
新型コロナウイルス感染症対策を十分とって、せっかくのお休み、私の分も楽しんで良い思い出を作って下さいね。
私も今、抗がん剤による化学療法の2クール目。明日の残すところ1剤の投与で終了します。今のところとても順調で、確実に自覚症状も取れて、治療によって治っていいていることを実感しています。そのことを感じることができることは、頑張りにもつながっていきます。これからが楽しみです。
さて今回は、私が入院するまでの間のもう一つのお話をしたいと思います。それは、母のことです。
母は認知症で実家で一人暮らしをしていました。最近ではその認知症も進んできていました。
小規模多機能を利用していてショートステイとデイサービスを組み合わせて麗容していました。大抵は月曜日の朝、母の家に6時ごろ行って、紙パンツやパジャマを着替えさせて、朝ごはんを食べてもらい、お薬を飲ます。そして準備が整ったら7時20分ごろに小規模多機能に連れていき、そこから渡邉医院に行っていました。月曜日はお泊り。火曜日は診察が終わった後、母を迎えに施設に。家に着いたら着替えてもらって、一緒にテレビを見ながら午後10時頃、母がベッドに横になって眠ってから帰る。水曜日はデイサービス、日帰りなので、朝6時頃母の家に行って、月曜日と同じようなことをして施設に送る。そして午後6時に診察が終わったら迎えに行く。そんな感じの生活リズムでした。月曜日から火曜日、木曜日から金曜日がお泊り。水曜日土曜日は日帰り。日曜日は私と母の二人といった感じでした。最近は仕事の関係や少し楽をさせてもらおうとお泊りの回数を増やしてもらっていました。
さて私が今回の病気が発症したのが3月7日の朝でした。6日は少し母は微熱があるので母と一緒に実家に泊まることにしました。朝起きて目を覚ますとその時点からものが二重に見えるようになりました。知っている先生と連絡を取って、母を一人残したまま病院に行きました。病院での診察の合間にケアマネージャーさんに連絡して、これまでの状況をお話しして、母を見に行っていただくことにしました。母はそのケアマネージャーさんに連れられていつも通っている小規模多機能に行き、しばらくお泊りで預かってもらうことにしました。本当にこの時のケアマネージャーさんには感謝です。症状が出てからは私は自分のことで精いっぱい。診察を続けているうちに、3月29日に入院となりました。
母は、たまたま今通っている小規模多機能の上にあるグループホームが3月に空き、そこに入所することができました。
このような経過です。ですから3月7日以降全く、母とは会えていません。
グループホームの方は、「皆さんと楽しくされていますよ。」「慣れてこられたのか、元気にされています。」とのこと。少し安心しました。
母は今月に5月で88歳。私の治療はまだまだ続きます。でも、入院以前と比べると全然違います。治療で治っていく実感があります。入院以前は自分のことだけで精一杯でしたが、このコロナ禍の中、難しいかもしれませんが、一度元気にしている顔が見たいなと思います。
「お母さん元気!私の治療は順調だよ。」と言いに。
肛門から汁のようなものが出てくる。
昨日は、結構雨が降っていたようですが、一転して今日はいい天気です。窓の外に見える木々の緑は、とても眩しく輝いています。チョット辛いぐらい輝いています。
私の治療の方も順調で、2クール目、火曜日にしたメトトレキセートの大量投与も、その後順調に血中濃度が下がり、昨日の段階で0.038<0.1になりました。予定通り週明けの月曜日、5月2日に2クール目最後の抗がん剤、リツキサンを投与します。とても順調です。体調も良く食欲もあり、本当に美味しく食事をいただいています。
さて、今回はこの間にいただいた質問に関して少しお話ししたいと思います。
Twitterでの相談もあり、そのことを通じて皆さんとつながる。このことも私の力になるので、Twitterでの相談も遠慮なくして下さいね。
今回の質問はなかなか難しい質問です。こんな質問です。
「たまにお尻からなんか汁のようなものがでますが痔に関係あるのでしょうか?」という質問です。
まずは、肛門に何らかの病気があった場合です。
内痔核の場合、内痔核は粘膜にできます。炎症を起こすと出血しなくても粘液が増えてきます。その粘液が肛門から出てくる可能性があります。患者さんの中には水のようなものが出るとか、ジクジク湿った感じがするといった症状を訴える患者さんもいらっしゃいます。
次に痔瘻。痔瘻の場合は、二次口と言って、肛門の外側のあな、出口から膿が出ることがあります。痔瘻の原発口、原発巣で炎症を起こすと瘻管を通って膿が二次口から出てくることがあります。
裂肛も傷ができます。そうすると傷があると、やはり滲出液が出てきます。
次は病気ではないのですが汁のようなものが出る可能性のあるものをお話しします。
まずは肛門腺からの分泌液です。
肛門縁から約2〜3cm、肛門上皮と直腸との境目に肛門腺と言って分泌液を出す腺があります。分泌の量が多い時はそれが、何か汁が出てきたようなきがすると言うことになります。肛門腺は、例えば犬が電信柱にお尻をこすりつけていますよね。これは犬の肛門腺から出る分泌液を電信柱にこすりつけ、自分の縄張りを示しているものです。また人間の場合は、私が思うには、排便の際に便がスムーズに出るようにするために、分泌液が出るのではないかと思います。その分泌液が多く出た場合に、何か汁のようなものが出たということになるのではないかと思います。
また汗をかくと言うのもありかと思います。
最後に、肛門の病気ではないのですが、便がスッキリ出ない時に、便や便中などが出てくることがあります。
肛門はそこにある便を出そう出そうとします。ですから、直腸に便が来ると、便が出やすいように内肛門括約筋が緩んでくれます。スッキリ便ができらずに残っていたりした場合、これがあとから出てきて汚れになったりジクジクすることがあります。
これと似たようことで温水便座での洗浄が原因で汁が出ることがあります。温水洗浄便座で、強く洗うと洗浄水が直腸に入って、その入った水が後から出て来ることもあります。これで汚れたり、ジクジクすることがあります。
いろんな原因があると思います。特に病気ではなく分泌液が多かっただけだったり。やはり何らかの肛門の病気があったりする場合もあります。いずれにしても「肛門から何か汁のようなものが出てくる。」という症状は、患者さんにとってはとても気になる症状になります。
そこは、医師とよく話す必要があると思います。
結構難しい質問でした。
病気への決断、「二人の渡邉賢治」
さて、今日は今回の悪性リンパ腫に罹患し、治療に至るまでの私自身の「決断」に関してお話ししたいと思います。
少し2クール目の経過をお話しします。4月26日火曜日に一番メインになる抗がん剤、メソトレキセートの大量投与とオンコビンの投与を行いました。メソトレキセートによる副作用が出ないようにしっかり利尿を図ることが大切で、十分な輸液と口からも水分を摂り利尿剤も×必要があります。しっかり利尿もあり、特にいまのところ副作用もなくまずまずかなあと思っています。72時間後のメソトレキセートの血中濃度を測り基準値以下ならもう一つの抗がん剤、リツキサンを投与する予定で、それが終わると2クール目が終了します。
さて、話は戻って今回の悪性リンパ腫に関しての私の「決断」です。そこには一つキーワードがあります。それは「二人の渡邉賢治」です。一人は一般人としての渡邉賢治、そうしてもう一人が医師としての渡邉賢治。この二人の「渡邉賢治」が微妙に「決断」に絡み合ってきます。
今回の確定診断までの経過です。3月29日に緊急で入院をしました。入院時は本当に全身がぼろぼろの状態でした。ホロ門のバランス、電解質のバランスが全てばらばらでした。入院当日外来から直ぐに造影でのMRIを撮影しました。そうすると、3月6日に症状が出て7日のMRIでは明らかにわからなかった腫瘍が脳の下垂体の近くに病室されました。これが今回の原因ということがわかりました。ただ原因がわかってその腫瘍がなんであるかは確定できません。
臨床症状やMRIに描出された主要、そしてその場所からリンパ腫というある程度の診断がつきました。でも確定診断ではありません。そこで、血液内科の先生と脳外科の先生とで相談され4月7日に脳外科による腫瘍の生検検査を予定することになりました。ただ、右目の動眼神経麻痺(瞼が開かなくなる。眼球の動きが悪くなる)の症状が有ること、そして、左目も何かモロモロとしたものが浮遊していて見えにくいなどという症状が有り、眼科にも受診していました。その眼科の先生が、この左目の浮遊物も今回の病気のリンパ腫にもみられる所見と診断され、脳外科での政権の日までに浮遊物の検査結果が出るようにとのことで4月4日に硝子体手術で浮遊物を取り除き、硝子体手術をすると白内障の悪化が起きることがあるため白内障手術を一緒にすることになりました。この手術に関しては二人の渡邉賢治の意見は一致していました。浮遊物がなくなること、また白内障手術をすることで今よりも良く見えるようになること、そしてその浮遊物の検査で確定診断ができることこの理由で直ぐにお願いすることに「決心」しました。脳外の生検手術までに結果が出るように手術を組んでいただいたがんかの先生には本当に感謝です。
母児手術が終わり、そしていよいよ浮遊物の検査結果です。血液内科の先生からのお話しでした。まずは予想していた以上に浮遊物から細胞が採取できたということでした。そしてその細胞の構成がBリンパ球であり、そしてある一部の特定されたBリンパ球がクローン的(同じものがどんどん増える)に増えているとのことでBリンパ球の悪性リンパ腫との診断とのことでした。悪性リンパ腫は血液の癌です。ですから脳の下垂体の近くに限局して腫瘍として現れた悪性リンパ腫という診断になります。
ですが、今回はここで終わりませんでした。ここから二人の「渡邉賢治」が意見を交わしあいます。
血液内科の先生のお話が続きます、確定診断は悪性リンパ腫でいいです。ですが採取できた細胞が少ないです。例えば、悪性リンパ腫の治療を行い、その効果があまりなかった時にしっかり採取できた組織があると、もう一度見直すことができる。そういった意味で4月7日の脳外科の生検手術の意味はある。といった内容のものです。もう一度血液内科の上の先生や脳外科の先生とで、生検検査をするかどうか検討すると出私にも考えておいてくださいとのことでした。しばらくたって、血液内科の先生が難しい判断です。原価の手術で確定診断は悪性連覇種でいいと思います。そこに脳外科による比較的侵襲のある生検手術をするメリットをどう考えるかです。しっかり組織を採取することはできることはメリットです。しかし一方頭の骨に穴をあけ、硬膜を切除して腫瘍を生検してくる。このリスクがデメリットです。侵襲があること、術後に髄液瘻ができてしまうとその治療もあり、悪性リンパ腫への治療が遅れるデメリット。脳外の手術はあくまで生検検査が主で腫瘍の摘出が目的ではないこと。あくまで悪性リンパ腫は血液の癌なので抗がん剤投与による化学療法で治療することが必要であること。この話を聞いた後、二人の渡邉賢治は話会います。やはり一般人の渡邉賢治は、脳外科による全身麻酔での生検検査は怖い。眼科の手術で悪性リンパ腫と確定できているのであれば、脳外の生検手術はせずに直ぐに悪性リンパ腫の治療に移ったらいいのではと。医師としての渡邉賢治はやはり治療によって効果が出なかったときに十分な組織があればその後の治療に役に立つ。また摘出手術ではなく、一部生検によって組織を摂ってくるだけなので摘出手術よりもリスクが低いのではないか。しっかり組織が手元にあることが必用ではないかという意見。血液内科の先生も脳外科の先生も迷ってられるということはやはり生検の必要性を感じておられるということ。私自身が「生検しましょう。」と言って皆さんが同じ方向を見て進まれた方がいいのではないかとも考え、その時は医師としての渡邉賢治の意見で、生検するという「決断」をしました。でもこの「決断」は覆ることになりました。生検手術を行う前日の水曜日に私は脳外科の病棟に移りました。この時は生検するという「決断」の元です。その日の午後最後にもう一度脳外科の先生が確認に来られました。「明日の生検手術を行っていいですか?」の質問をされました。脳外科の先生からもこれまでと同様のお話、メリットデメリットをお聞きしました。そしてそれとは別のお話をされました。「今は脳外科で悪性リンパ腫かどうかを生検手術で確定診断をしています。今日もお一人その生検手術がありました。でもこれからはどんどん変わっていくと思います。今回のように硝子体内の浮遊物や髄液などをフローサイトメトリーで調べ確定診断に至るようになっていきます。そういった意味で脳外科の出番は少なくなっていくでしょう。また、入院時のホルモンのバランスが崩れていたので、少量のステロイドを内服されています。そのことで症状がどんどん良くなってきています。腫瘍も入院時よりちいさくなっている可能性もあります。」というお話でした。またここで二人の渡邉賢治は迷いました。「どのくらい待っていただけますか?」の質問に「手術室の準備もありますから、1時間後に来ます。」と。ここでまた二人の渡邉賢治の葛藤です。特に医師としての渡邉賢治が大きく揺れました。その原因は、「今回のような硝子体の浮遊物や髄液のフローサイトメトリーによる確定診断が主流になる。」ということばです。1時間というとても短い時間。いらっしゃった先生の科をを観ながら、「手術室、先生方の準備などしいぇいただいていましたが、申し訳ありませんが、生検手術はやめ、悪性リンパ腫の治療に入ります。:」と。先生はにっこり笑って「わかりました。」と。生検手術を押し付けることなくあっさり私の意見を受け入れて下さいました。
翌日、今度は血液内科の病棟に移り、血液内科の主治医の先生から、「早期に悪性リンパ腫の治療が始められるようになりました。頑張りましょう。」と。1クール目が終わった後「とても良いスタートが切れました。」と。まだ2クール完全に終わっていませんが私自身の実感としていまのところ激しい副作用もなく、どんどん良くなっていると思います。今後治療効果を観ながら5クール進め、最後に自家血移植。まだもう少しかかりますがとても期待しています。私の「決断」が正しかったかどうかはまだまだ先にわかります。でもきっと正しかったと思います。復帰の際は、また皆さん落ちおからをかして下さいね。よろしくお願いいたします。今後の経過もブログでアップしていきたいと思います。
少し長くなりましたが、終わりにしたいと思います。
渡邉医院、休止の「決断」
今回、悪性リンパ腫になり入院して抗がん剤による化学療法での治療をするにあたり、様々な「決断」を迫られる場面が多かった。しかも「決断」を考える時間が本当に短い時間で「決断」しなければならないことが多かった。
現在渡邉医院は休止しています。今の状況では9月1日に再開を予定し目指しています。
さて、「決断」ですが、入院するということに関しては、これはどうすることもできないし、私自身決断するもなく、必然的に入院となりました。その時の私を見ていたスタッフ、そして私自身、入院は必要であり、入院するかしないかを決断するまでもないほどの状態でした。ただ、入院してからが「決断」の嵐でした。大きくは五つ。まずは患者さんのこと、そして渡邉医院のスタッフのこと、そして渡邉医院のこと、家族のこと、そして私自身のことです。
患者さんに関しては、まずは手術の予定が決まっている方。やっとの思いで肛門科の敷居を超えて、仕事などの調整をして手術日を決めてもらったのにそれをキャンセルしてもらわなければならない。とても辛い決断です。しかも私はすでに入院してしまっているので、看護師さんや事務の方総出で患者さん皆さんに連絡していただいた。スタッフにとっても大変な作業だったと思います。これと反対のことは一度ありました。それは、私の父が脳梗塞で倒れ、急遽私が京都に帰ってきて診療を引き継いだ時です。この時は、父が倒れて手術ができなくなり、息子の私が手術をしても良いかということを手術予定の患者さん皆さんに連絡して聞いた時です。患者さんの中には「お父さんのDNAが流れているのでお任せします。」とおっしゃる方もいて、手術予定の患者さん、皆さんがキャンセルされることはなく、私の手術を受けて下さることになりました。後から考えると、このことはこれまで祖父や父が行ってきた治療、医療が本当に患者さんのための医療であったことの照明だったのだと思います。私も、祖父や父のように、しっかり患者さんに医療が提供できていたか、そのことが今後問われてくるのかなあと思います。
また、患者さんに関しては、手術をしたばかりの患者さん。そうでなくても、やはり術後3日間、その後は約1週間後、さらに1週間後そして2週間後と言った大事なポイント診察できなくなるといったこともあります。また、定期的に受診されている患者さんの治療等、多くの課題があります。こういったことをすべてクリアすることはできません。本当に患者さんにはご迷惑をかけたと思います。
次に渡邉医院のスタッフのことです。
3月29日に私が入院した後は、渡邉医院は休診としました。休診とは知らずに受診される患者さんや電話での問い合わせへの対応のため、交代で診療所に来てもらっています。
ただいつまでの休診のままではやっていけません。休診のままでスタッフを雇用し続けることはできません。収入も全くなくなり、一方ではスタッフの給与、健康保険料、厚生年金等出ていくものがあります。休診では1か月も持ちません。やはりスタッフには退職してもらい、いったん渡邉医院は休止にしなければなりません。代診の先生を探して診察を続けてもらおうかとも考えました。でも、肛門科という特殊な診療科。内科的な診察だけでなく、手術もあります。なかなか肛門科の代診の先生はいらっしゃいません。また無理して代診の先生に来ていただいたとしても、これまでもそんなに収入があったわけではありません。これまで以上に収入が減ると、やはり渡邉医院を続けていくことはできません。そこで思い切って休止にすることを決断しました。祖父の時代から私の時代まで。すでに95年は立っていると思います。再開すると入っても、これまでの95年の歴史を通じて初めてその歴史にいったん終止符を打つ。とても辛い、切ない思いがあります。必ず再開して新たな渡邉医院を作り上げていかなければならないと思っています。
そうゆうことでスタッフの方には入院中だったので電話で渡邉医院を休止して、スタッフの皆さんは退職ではなく、診療所の都合による解雇ということになるとお伝えしました。診療所の都合による解雇の方が早く休業補償を申請できるとのこともあるので。給与は払えなくなるのであればできるだけ早く休業補償を申請できるようにしたいというきもちがありました。スタッフ一人一人の生活があります。
幸いにも、抗がん剤による化学療法が1クール終わった時点で、いったん退院することができました。スタッフ皆さんに時間をとっていただき、電話ではなく、直接皆さんの顔を見てこれまでの経過、今後の治療の予定、そして渡邉医院の今後をお話しすることができて本当に良かったと思います。
今現在の目標は、9月1日に、新しくなった渡邉医院の再開です。新たなスタート、歴史を作っていきたいと思います。皆さんも見守って下さいね。
少し長くなったので、今回はここまでにして、次回私自身の決断についてお話ししたいと思います。
4回目の入院。「膝の手術を決心」
今回で最後、第4回目の入院の想い出です。今回は、痛めていた半月板。いよいよ手術で治した思い出です。
さて、少し現在の私の治療をお話しします。
悪性リンパ腫に対し抗がん剤での化学療法を行っています。今日から2クール目の治療の準備、明日、抗がん剤の投与です。中心となる抗がん剤がメソトレキセートの大量投与。それに加えてオンコビンの投与です。メソトレキセートを大量にいくため、十分に尿中に排泄しなければならないので、十分な輸液と口からもしっかり水分を摂ろうと思います。利尿剤も一緒に投与します。トイレに行く回数、量も増えます。頑張りますね。
さて、本題の4回目の入院です。
今回の入院は、医者になって4年目頃のことです。
私の時代は、まだ医局制でした。国家試験に合格した後、私は日本大学医学部の第3外科(現在は消化器外科です)に入局しました。やはり、渡邉医院が肛門科に特化した診療をおこなっているので、肛門疾患も治療している消化器外科中心の第3外科に入局することにしました。その当時の第3外科の教授が坂部教授と言って、肛門の手術なども積極的に行っていたことも入局する理由になりました。また坂部教授も渡邉医院のこと、祖父と父のことを良くご存じで、医局の宴会の時に私に「お前のことは、お前が生まれる前から知っている。」など声をかけてもらったりしていました。
そのころの医局制、とても面白い仕組みでした。やはり大学時代の部活の先輩後輩の関係があったり、各科に臨床実習に行っている際にも「医局に入らない?」といった部活の勧誘みたいな感じもありました。
入局して3年が過ぎると、麻酔科での研修があります。手術だけでなく、麻酔もかけることができるように研修を受けます。その麻酔科の研修が終わるといよいよ関連病院への1年ちょいの出向があります。1年ちょいずつ2か所の病院に出向します。言ってみれば3年間の経験実績をさらにレベルアップする、実地でしっかりとさらに勉強するといった意味合いがあったと思います。その二つ目の病院に出向した時に、以前から具合の悪かった左膝の半月板損傷に対しての手術をその病院でしました。
病院勤務中の手術、今回とは違って外科医は私だけではありません。外科はチームで行うので、外科チームの構成は、私と私の同級生1人、上司が2人の計4人でのチーム医療です。
高校の時に痛めた半月板を手術で治そうと決心した理由は、やはり長時間の手術になるとどうしても徐々に左膝が痛くなってくること。また、回診中にロッキングと言って、損傷した半月板が引っ掛かり、膝が動かなくなったりするようになったからです。
同じ病院で働く日本大学の先輩の整形外科医に手術をお願いしました。そうすると、先輩の整形外科医は日本大学に戻って手術をするものだと思っていたようで、私が「先生、手術お願いしますね!」と言うと、「おれでいいのか?」と。「信頼していますから。」
手術は無事終了。周りの方々には迷惑をかけましたが、仕事というリハビリをしながら、無事復帰しました。
千葉県の銚子市にある病院で、犬吠埼等、雄大な海に囲まれ、そして海の幸がとても美味しかった思い出です。
今回でこれまでの入院歴、そして想い出はおしまいです。