さらなる社会保障の充実を目指して。

今年も後残すところ今日も入れて3日間になりました。1年あっという間でした。
渡邉医院も昨日12月28日で年内の診療は終了しました。年明けは1月6日の月曜日からです。来年はねずみ年。年男。還暦を迎えます。自分自身還暦を迎えることに驚いています。まだまだそんな都市ではないと、自分は思っているのですが。
さて、今年もいろんなことがありました。社会保障に関しては社会保障の本来あるべき姿が間違った方向へと捻じ曲げられていっています。来年はそのことに対抗して、本来あるべき社会保障の姿を取り戻す取り組みを今年以上に強めていきたいと思います。
そういった思いも含めて、新年に向けての思いをお話したいと思います。
今、90年代以降進められてきた新自由主義改革政治によって、雇用や労働条件の悪化、また社会保障の後退などによって、国民の生活が困難となり格差がどんどん拡大してきています。
こうした中、安倍政権は「全世代型社会保障改革」をすすめようとしています。
この改革は、医療や介護、年金、そして雇用や労働の制度を一体的に改革し、効率化とともに税・保険料の負担の担い手を拡大する政策の具体化しようとするものです。具体的内容は、①意欲があれば、70歳まで働き続けられる雇用環境をつくる②年金の受け取りを、希望すれば75歳以上に遅らせることができるようにする③一定の収入がある高齢者の年金を減額する今の仕組みを見直す―などが挙げられています。
検討項目には、給付と負担の見直しとして、とりわけ高齢者を狙う負担増が挙げられています。現役世代と高齢者との世代間の対立を煽ることで、高齢者への負担増を容認させ、社会保障給付を薄くしていく。そういった意図が見えてきます。子どもを育てる親の世代、そして高齢者を介護する子どもの世代。現役世代の負担を軽減させる政策は、決して高齢者の負担を増やし、高齢者の保障を薄くすることではありません。
今、辛い時辛いと言えているでしょうか?助けて欲しい時助けてと言えているでしょうか?今の社会は、辛いとか、助けて欲しいと言えない社会になっています。本当は辛い時辛いという権利、助けて欲しい時助けてという権利を私たちは持っています。そして憲法で保障されています。それを実現するのが社会保障です。今はそれが保障されていない。おかしな社会、社会保障になっています。自己責任論を振りかざし、「自分たちで何とかしろ、地域で支え合え、どうしようもなくなったら最低限の保障をしてやる。国をあてにするな。」と言った具合に。また、その地域そのものも壊されてきています。
今、自治体の本来あるべき姿を失いつつあります。本来は市民に最もも近くなければならないのが自治体です。しかし、残念なことにいまその距離がどんどん離れてしまっています。本当は、自治体自ら市民に出向き、寄り添い、市民の声を聴き、そして市民の生活を豊かにしていく。こういった責任があります。自治体の本来あるべき姿は、国が保障できない不十分な点を補うことにあります。
しかし、今の自治体は、国との対等性を失ってしまっています。そして、国の政策に追随し、下請け状況。現政権の自治体戦略は本来の自治体の独自性を制限して、自治体の本来あるべき姿を壊しているのではないかと思います。本来あるべき自治体を私たち市民が勝ち取っていかなければなりません。
さて、これまで消費税増税が行われてきました。でも増税することで、私たち国民がそのために生活が豊かになったと感じている人がいるでしょうか?消費税は上がったが、私たちの生活は何一つ豊かになっていないと感じている人がほとんどではないでしょうか。消費税が上がっても私たちの生活はよくならない、税金がどう使われているか、私たちの生活とはかけ離れたところで使われている。そんな不信感が今の国民の政治不信、政治への無関心につながっているのだと思います。今この状況を転換しなければなりません。税金の使い道を明らかにして、増税しても私たちの生活が豊かになる。そんな実感を持てる政策を進めていかなければならないのではないでしょうか。
税と社会保障の一体改革を結うのであれば、消費税増税か社会保障削減かという二者択一の議論ではなく、すべての税のあり方を一体的に改革していく必要があるのではないかと思います。
さて、社会保障はすべての分野で現物給付でなければなりません。そして必要充足の原則を守らなければなりません。
医療ではまだこの必要充足の原理、現物給付の原則が曲がりなりにも残っています。私たちはこのことを堅持して、さらに拡充していかなければなりません。しかし一方で介護保険はサービスを買う制度で現物給付ではありません。介護保険も医療と同様に必要充足の原則を確立させることが必要です。
本当に家族が介護を必要とするときは、介護が必要な人が医療も必要となった時です。今の制度では医療が必要となった場合、介護保険でのサービスが使えません。医療と介護を分離した制度そのものにも問題があるのではと思います。もう一度介護保険を見直し、医療も介護も分け隔てなく、その人が必要とする医療、介護を必要なだけ現物給付で給付する。そういった制度にしなければいけないと考えます。
最後に、私たちはこれまで続いてきた新自由主義改革から脱却しなければなりません。そして新しい福祉国家を目指していかなければなりません。そのためには社会保障を充実させる財源論も重要になってきます。そうした財源論の提言をじっくりと、そして早いテンポで進めていかなければなりません。
「ONE FOR ALL. ALL FOR ONE.」の精神で、志を同じくする人たちと一緒に社会保障をの充実に向けて取り組んでいきたいと思います。
最後に私の母が教えてくれた言葉を締めくくりにしたいと思います。
「一人でみる夢は夢でしかない。でも、皆でみる夢は現実になる。」
年末年始の休み期間中に気になる肛門の症状と対処法。便秘編。

この年末年始の医療機関が休みになる期間で心配になる三つの症状ということで、「出血編」と「痛み編」の2回お話してきました。今回は便秘で便が詰まってしまった時のお話をしたいと思います。
便が詰まるととても辛い!
便秘で便が直腸に詰まってしまっていくら頑張っても出ない。これはとても辛い症状です。便が詰まってしまうと、いくらトイレに入って頑張っても出ません。頑張っているうちに気分が悪くなったり、貧血を起こして、目の前が真っ暗になってしまうこともあります。また、便が出なくて頑張っているときは血圧もすごく高くなってしまいます。血圧が高いなど心臓の病気があったり、脳梗塞や脳出血を起こしたことがある人などは、やはり具合よく楽にスッと便が出るようにしておく必要があります。
便が詰まると肛門も痛くなる。
また、直腸に便が詰まってしまうと、肛門の病気が無くても、とても肛門が痛くなります。肛門が痛いといって救急車で運び込まれてきた患者さんもいらっしゃいました。診察してみると、痛みの原因は肛門の病気ではなく、便が直腸に詰まってしまったことによる痛みでした。直腸に便が詰まってしまうことでも肛門に強い痛みが出てきます。
また便が詰まったままにしておくと、大腸の粘膜から細菌が体に入り込み、体に悪影響を起こすこともあります。命に係わるといったことが起きてしまう可能性もあります。
便秘に対しては日ごろから緩下剤を内服するなどして、具合よく出るようにしておく必要があります。
「快便の秘訣」というブログを以前アップしました。詳しくはそちらの方で便秘の治療に関しては見ていただきたいのですが、便秘を治すには、便の中に十分な水分が含まれていて、便の量を増やす繊維をとり、量のある便にすること。そして大腸が具合よく動くこと。この三つがそろって気持ちよく便が出てくれます。どれが欠けてもダメです。
寒い冬も、しっかり水分を!
冬になってグッと冷え込むようになって、便が硬くなって便が詰まってしまう患者さんが多くなっています。その原因の一つが水分が十分に摂れていないという点が挙げられます。
夏は暑いし汗もかく。体の外に水分がどんどん出ていってしまいます。熱中症のことを考えるとしっかり水分を摂らなければという意識があります。また暑いので水分も比較的容易に摂ることが出来ます。
一方今の寒さが厳しい冬。外は乾燥しています。建物の中は暖房して乾燥している。冬も夏と同じように体からどんどん水分が出ていってしまいます。この寒い時期に脱水になってしまう方もいます。
でも夏と違って、十分に水分が摂り難くなっています。そのようなことで、寒い時期からだから水分が自分が気が付かないうちに出てしまい、しかも十分に水分を摂ることが出来なくなる。こういったことが寒い冬に便秘がきつくなって便が詰まってしまう一つの原因になってしまいます。なかなか摂り難いですが、この寒い冬の時期も十分に水分を摂る必要があります。
一端硬くなった便を柔らかくする薬はありません。
また、一端直腸で硬くなってしまった便を飲み薬で柔らかくすることはできません。緩下剤は便が硬くならないように、柔らかくするお薬です。一端硬くなった便を柔らかくする薬ではありません。もっと言うと、硬くなってしまった便を柔らかくするお薬はありません。
硬くなってしまった場合は、摘便と言って、硬くなった便を崩してある程度柔らかくしてから浣腸をして出す必要があります。
硬い便のまま浣腸しても便は出てきません。でもなかなか自分で硬くなった便を指で崩して柔らかくして浣腸して出すといったことは難しいです。便が詰まってしまった場合は、やはり早めに医療機関を受診して出してもらう必要があります。
食べたものが消化され吸収され便になるまで、ゆっくりで3日間です。今日食べたものが三日後に便となって出ることもあります。ただ、3日間の間にスッキリ便を出す必要があります。3日経っても出なかったら、4日目を期待しても出ません。また出なくなった場合、出るかなあ出るかなあと待っていても出ません。やはり早い時間に医療機関を受診することが必要です。
緩下剤の内服の仕方は主治医としっかり話を。
便秘の方は、やはりしっかり緩下剤を内服して具合よく便が出るようにして、2日間出なかった場合は、いつも飲んでいる緩下剤の量を増やしてスッキリ出してしまう必要があります。緩下剤の飲み方、出なくなった時にどのように緩下剤を増やして便を出したらいいかは、主治医の先生とよくお話しておく必要もあります。
生活のリズムと排便
また便の調子は生活のリズムにも影響されます。いつもと違った生活のリズムになるとどうしても便が出にくくなってしまう方が多いです。
例えば旅行に行ったら便が出なくなってしまう。いつものトイレでなければ便が出にくくなる。また平日は調子いいが、休日になると出にくくなってしまうなど、生活のリズムや環境そして精神的なことと排便の状態には密接な関係があります。
これからの年末年始、いつものような生活とは違ったリズムになってしまいます。食事の内容なども変わります。そういうことから便秘になってしまうこともあります。
基本的には水分をしっかり摂って、便の元になる繊維質をとり、3日間の間には1回は便をスッキリ出す。もともと便秘の人は緩下剤をしっかり飲んで、出にくいときは量を増やしてスッキリ出してしまう。そういったことに気を付けていくことが必要かなあと思います。
快便で快適な生活を!
気持ちよくスッキリ便が出ることはとても大切だと思います。スッキリ便が出ることで1日の生活が本当に快適に過ごすことが出来ます。快便で、年末年始、そして楽しいお正月を迎えましょうね。
年末年始の休み期間中に気になる肛門の症状と対処法。痛み編。

この年末年始の医療機関が休みになる期間で心配になる三つの症状ということで、前回は「出血編」で、出血の状態と対処法をお話しました。今回は「痛み編」と言うことで、痛みの出る病気とその際の対処法をお話したいと思います。
痛みの出る肛門の病気。
肛門の病気で痛みが出る病気には大きく四つあります。一つ目は血栓性外痔核。二つ目は内痔核に血栓が詰まって脱出したままになった嵌頓痔核。三つ目は肛門周囲膿瘍。そして四つ目が便秘で便が詰まって出なくなってしまった状態で起きる痛みの四つです。四つ目の便秘に関しては次回に回したいと思います。
血栓性外痔核
まずは血栓性外痔核についてお話します。
血栓性外痔核は、肛門の外側の血管に血栓が詰まって腫れて痛くなる病気です。もともと細かな静脈が集まっているところで、血液の流れが悪いのですが、さらに冷えたり忙しかったり寝不足だったり、ストレスがかかるとさらに血液の流れが悪くなります。そしてストレスがかかると血小板がくっ付きやすくなって血栓ができやすくなってしまいます。
そういった条件が重なって、最後は便の時にグッと頑張ったり、重たいものを持ってお腹に力が入った時に、突然血栓が詰まります。そして血栓が詰まって腫れると痛みが出てきます。
少し違いますが、指を挟んで血豆が出来て腫れて痛かったり、どこかにぶつけて青く内出血して腫れて痛いと似ています。血栓性外痔核は今まで何の症状もなかったのに、いきなり血豆が詰まって腫れて痛いといった具合に症状が出ます。触ってみると少し硬い豆のようなものが出来ている。こんな時は血栓性外痔核です。
血栓性外痔核は痛いのですが慌てることはありません。血栓が詰まって腫れて痛い、と言うことなので、腫れを取ってあげると痛みは楽になってきます。例えば消炎鎮痛剤の座薬を入れたり、座薬が無くても消炎鎮痛剤の内服薬を飲むと腫れが引いて痛みが楽になってきます。また一番良く効くのが入浴です。お風呂に入ってゆっくり温めてあげると、腫れが引いて痛みが楽になってきます。また時間も解決してくれます。血豆が詰まって腫れて痛くても時間とともに段々晴れが引いて痛みは楽になってきます。どこかにぶつけて腫れて痛くても時間が経てば腫れが引いて痛みがらくになるのと同じです。
では詰まった血豆はどうなるかですが、これも時間とともに溶けて体に吸収されて治っていきます。ぶつけて青く内出血したところが段々薄くなって小さくなって治っていくのと同じです。血栓性外痔核は必ず治っていくので心配しないでください。また外痔核なので押し込むことはできないので、押し込もうとしないでくださいね。
嵌頓痔核
二つ目の嵌頓痔核ですが、もともと内痔核があってその内痔核に先ほどの血栓性外痔核と同じような条件が重なって、血栓が詰まって脱出したままになって戻らなくなった状態です。これもとても痛い病気です。
血栓性外痔核と同様に必ず時間とともに腫れが引いて、痛みが治まり、詰まった血豆は溶けて吸収していきます。嵌頓痔核になった前の状態には戻っていきます。ただ、血栓性外痔核より痛みが強いです。嵌頓痔核になった場合は、直ぐに手術して治すこともありますが、先ほどの血栓性外痔核同様に、消炎鎮痛剤の座薬を使って痛みや腫れをとり、入浴することで痛みは徐々に軽減はされてきます。可能であれば、血栓が詰まって脱出したままになっている内痔核を中に戻してあげると痛みはグッと楽になります。脱出したままだと、脱出した内痔核が首を絞められたような状態になって、血流障害が起きて壊死していくこともあります。
なかなか自分で戻すことは難しいです。この場合は医療機関を受診してとりあえず中に戻してもらうといいと思います。根治的な治療は休みが明けてからで十分です。
肛門周囲膿瘍
三つ目の肛門周囲膿瘍です。
肛門周囲膿瘍は、肛門と直腸との間にある肛門腺に細菌感染を起こして炎症を起こし、化膿して膿が肛門に広がっていくとても痛い病気です。特に下痢をしたりした時に起きることが多いです。
肛門周囲膿瘍の場合は時間とともに痛みがどんどん強くなっていきます。肛門の表面の方へ膿が広がっていく場合は、肛門が腫れあがり、触ってみても腫れているのが解ります。ただ、表面ではなく、奥の方へ深く膿が広がっていく場合は表面的には晴れは解らず、触ってみてもわかりません。ただ押さえると痛みがあるのと、奥深く膿が広がっていく場合は38度以上の発熱を伴うことがあります。そして、このように奥深く膿が広がる場合はたいていは肛門の後ろ、背中側に起きてきます。肛門の後ろの方が痛くて、段々痛みが強くなり、そして熱が出た場合は、肛門周囲膿瘍が奥深く広がっている可能性があります。
この肛門周囲膿瘍になった場合は、消炎鎮痛剤の座薬を使ったりお風呂で温めてもダメです。お風呂に入って温めるとさらに痛みが強くなる場合もあります。この場合は、迷うことなく救急などの医療機関に受診して切開して膿を出してもらう必要があります。
これら三つの病気の中で緊急性を要するのがこの肛門周囲膿瘍です。
次回は便秘で便が詰まって痛くなることについてお話したいと思います。
年末年始の休み期間中に気になる肛門の症状と対処法。出血編。

今年も後残すところ6日間。一週間を切りました。渡邉医院の近くにある北野天満宮は毎月25日が縁日です。そして12月25日は「終い天神」。1年を締めくくる日です。多くの人が参拝に行かれているようです。きっと受験生も多いことだと思います。
さて、なかなか肛門科は受診しにくい科だと思いますが、みなさんスッキリ治すことが出来たでしょうか?渡邉医院も28日の土曜日で今年の診療を終えます。12月になって、今年中に治してしまおうと思われる患者さんが来られています。また、年を越すのに、薬がなくなると心配と言うことで受診される患者さんもいらっしゃります。
まだまだ時間はあります。お尻の具合が悪くて心配な方は是非受診してくださいね。今年中にスッキリと治すことが出来なくても自分の病気のことや、治療方法、そして自分でできる対処方法を知っていただけるだけでも安心して新年を迎えられると思います。でもまあ、休みと言っても一週間。今年のゴールデンウイークよりは短いんだなあとも思います。
心配になる三つの症状
さて、この年末年始の医療機関が休みになる期間で心配になる症状としては、三つかなあと思います。一つ目が出血。二つ目が痛み。そして三つめが便秘で便が詰まって出なくなってしまうこと。この三つではないでしょうか?それぞれの対処方法をお話したいと思います。
出血!
まず一つ目の出血です。
排便時に出血。あまりいい気持ちはしません。痔からの出血なのか?、大腸からの出血なのか?、悪い病気ではないだろうかなど心配になります。また出血が続いて止まらなくなったらどうしようと心配になることもあると思います。
肛門の病気、内痔核、裂肛からの出血は慌てないで!
まず肛門の病気。内痔核や裂肛が原因での排便時の出血はあわてることはありません。内痔核や裂肛での出血はずっと血が出続けているわけではありません。内痔核の場合は、排便時に、便が内痔核を押しつぶすように出てくるときに出血するのですが、便が出てしまうと出血は治まります。肛門の中で出血し続けているわけではありません。真っ赤な血が便器にポタポタ落ちたり、場合によってはシャーっと音がしながら出血することがありますが、その時だけです。また裂肛からの出血も便が肛門を通過する際に傷が付いたり、裂肛を擦った時に出血します。でも裂肛からの出血もその時だけです。ですから慌てることはありません。
軟膏などの外用薬があればそれを塗ってもらったり、一番良く効くのが入浴です。出血していてお風呂に入って大丈夫かと思うかもしれませんが、内痔核の場合は血流がよくなるので、内痔核の腫れが引いて、出血しにくくなります。また裂肛の場合も血流が良くなり、また内肛門括約筋の緊張がとれ、裂肛自体が治っていきます。
緊急を要する出血!
さて、出血の中で緊急を要するのが、頻回の下痢状の出血です。下痢をしたのかなあと思ってトイレに行って出してみると多量の下痢状の便が出る。とりあえずお腹がスッキリしたかなあと思ったら、また便がしたくなって、出してみると同じように下痢状の便が出る。こういった出血の場合は、内痔核や裂肛などの肛門の病気と言うよりは、大腸の病気、例えば憩室炎に伴う出血だったり、大腸炎による出血。場合によっては悪性腫瘍からの出血の場合もあります。こういった下痢状の頻回の出血があった場合は、迷わず救急の病院を受診することをお勧めします。
今回は出血についてお話しました。次は痛みについての対処の仕方をお話したいと思います。
「ひとりぼっち」をつくらない社会

辛い時、辛いと言えていますか?助けて欲しい時、助けて欲しいと言えていますか?
12月14日に、きょうされん京都支部主催のきょうされん第41回全国大会in京都一周年記念の集い「ひとりぼっち」をつくらない社会をめざしてに参加してきました。そこで感じたことをお話したいと思います。
私自身「ひとりぼっち」にはならないと思っていました。でも自分自身が知らず知らずのうちに、自ら「ひとりぼっち」になってしまう状況になりかけていたことに気が付きました。
私の母は、85歳です。3年ほど前から認知症が進み、今はかなり進行しています。ひょっとしたら私のこともあまりわからないのではないかと思います。と言うのも、母と一緒にいるとき、よくこんなことを母は言います。「あなたのお父さんとお母さんはどうしているの?」と。
母が認知症になった時、私はこれまで私を育ててきてくれた母を、これからは私が見なければならないと思っていました。介護保険も使わずに、母の自宅でみていました。母は一人暮らし。診療している際も自宅にいる母のことを気にしながらの生活でした。
そんな危うい状況を見ていた友人が、「今の先生の状況をみて、お母さんは喜んでおられるでしょうか?それを望んでおられるでしょうか?」と。介護保険を使って公的支援を受けたほうがいいとアドバイスしてくれました。その言葉に私は目が覚めました。母のことを気にしながらの診療もよくない。今の状況で母をみていることは、母のためにもならないと思い、介護保険を申請して、デイサービスなど公的支援を利用することにしました。
危うく私自身を、そして母を「ひとりぼっち」にしてしまうところでした。
そんな時、今年の1月に母が顔のヘルペスになってしまいました。痛みがあるのと、顔のヘルペスなので瞼がパンパンに腫れあがり目が開けられなくなり、見えない状態になってしまいました。自分で歩くことも、食事を摂ることもできなくなってしまいました。毎日がトイレの介助、食事の介助に追われる日々になりました。
そんなこともあって、私も、仕事は何とか続けられましたが、まったく身動きが取れない状況になってしまいました。年齢的なこともあって、回復には時間がかかりました。
このように、私たちは不安定な社会、いつ今の生活が崩れてもおかしくない、そんな社会に生きているんだなあと実感しました。そして今の社会は、日常の生活が病気や災害などで、今の状況が崩れた時、自分たちで何とかしろ、地域で助け支え合え、どうしようもなくなったら国が最低限の保障をしてやる。国を当てにするな。といった、自己責任論を振りかざして、社会保障制度の理念を根本から変えてしまった、そういった間違った社会保障の理念のもとで、私たちはいつ今の生活が崩れてもおかしくない社会の中で、危うい、不安定な生活を送っているんだなあと感じます。
今はもう元気になって、デイサービスにいったり、ショートステイに行ったりしています。
母はいつも素敵な笑顔を見せてくれます。小さな子供を優しい眼差しで見つめたり、一緒にご飯を食べているときなど、こんなに笑えるかと言うほどに、顔をクチャクチャにして笑う時もあります。こんな母の素敵な笑顔、優しい眼差し、私は大好きです。
もし、私が一人でみていたら、そんな母の笑顔を見続けていることが出来ただろうかと思います。きっと私も、母も笑顔のない、暗い生活を送っていたに違いありません。自分自身を、そして母を「ひとりぼっち」にしてしまっていたかもしれません。
今の社会、辛いとき辛いと言えているでしょうか?助けて欲しい時助けてと言えているでしょうか?今の社会、辛いとき辛い、助けて欲しい時助けてと言えない社会になってしまっています。でもこのことは間違っています。なぜなら、私たちは辛いとき辛いと言う権利。助けて欲しい時助けてと言う権利があります。そして、そのことを憲法が保障しています。でも今その保障が十分ではありません。私たちは私たちが持っている権利を、憲法が保障している権利を国に実行させるように取り組んでいかなければならないと思います。
今日も母は素敵な笑顔を見せてくれています。なんか可愛らしく、素敵に認知症になっていると感じます。
これから先も素敵な母の笑顔を見続けることが出来るような社会そして、誰も「ひとりぼっち」にさせない社会にしていきたいものです。
「迎春みぞれ鍋」のレシピを紹介します。

1月のレシピの最後は「迎春みぞれ鍋」のレシピです。
来年はねずみ年です。今回の鍋には大根おろしで作ったねずみが入っています。
私はねずみ年生まれ。来年は年男です。さらに還暦を迎えます。自分自身、今度の誕生日で還暦を迎えるんだと思うとびっくりです。
京都に帰ってきたのが25年前、その時は34歳。いまから考えるととても若い。でもでも今の自分はその時の若い気持ちでいるのですが、周りの人はどう見るのかなあと思います。まだまだ若い気持ちで、令和2年を迎えようと思います。
若いころ、お正月ってどうしていたかあって考えてみました。大学に行く前は、その頃はまだまだコンビニ何かなかったように思います。またお正月に開いているお店など、数少なかったと思います。ですから年末は母と妹、そして私の3人で、お節料理を作っていました。人参を梅の花の様に切ったり、元旦のお雑煮の具である、ごぼうのささがきをしたりしていました。渡邉家の元旦のお雑煮は鶏肉とごぼうのお澄ましでした。また、年末には母方の親せきが集まってお餅つきもしていました。楽しい思い出です。
また、大学に行く前の二十歳頃は、お正月には着物を着て初詣に行っていたものです。最近は全く着物は着なくなってしまいました。チョット着てみたいなあと思います。
お正月は家族みんなでお鍋をつつくのもいいですね。温まりますし。
では「迎春みぞれ鍋」のレシピを紹介しますね。お鍋の〆は揚げたお餅です。
「迎春みぞれ鍋」
1人分 約250kcal、たんぱく質 25g、食物繊維 5g
材料(4人分)
鯛(刺身用) 半身
あれば皮つき
白菜 1/8個
白ねぎ 1本
えのき 1袋
ごぼう 1本
金時人参 5cm
貝割れ大根 1/2パック
大根 10cm
だし 1.5ℓ
塩・しょうゆ 適宜
餅 4個
作り方
- ①大根はおろしてネズミ型に整える。
- ②他の野菜は千切りにする。
- ③鯛は皮に熱湯をかけ冷水で絞めてうすく切る。
- ④土鍋にだしを入れ、沸騰したら②③を入れ①をのせる。
*ポン酢などでお召し上がりください。
⑤お餅を揚げ、〆に入れる。
*鯛を他のしゃぶしゃぶ(ぶり、鮭、豚肉など)に変えても、野菜はあるものなんでも。千切りにするとたっぷり食べられます。
「鯛の昆布締め風」と「しめさばの酒かす和え」のレシピを紹介します。

1月のレシピは「新春レシピ」と言うことで紹介しています。今回も前回に引き続いて、お酒の肴になるレシピを紹介します。今日は「鯛の昆布締め風」と「しめさばの酒かす和え」の二品です。
昆布締めはお刺身でたべるのとは少し違って風味が出ますよね。鯛や平目などの白身の魚を昆布締めにする。昆布に刺身を挟むだけで、うま味と風味が出ていいですよね。以前、牛肉の昆布締めをいただいたことがあります。これもやはりうま味と風味が加わり、とても美味しかったです。
ネットで調べてみると、小松菜やブロッコリー、カリフラワーや蓮根などなど野菜の昆布締めもあるんですね。チョットびっくりでした。食べてみたいです。
昆布締めをすることで、昆布が食材の余計な水分を吸収して、その代わりに昆布のうま味と香りを食材に与えることで、保存性と美味しさを高めるそうです。昔の人の知恵ですね。
さて、私は鯖が好きです。単に焼くのもいいですし、味噌煮も美味しいです。また鯖寿司も大好きです。しめさばも生姜を付けてお醤油で食べる。いいですね。今回はそのしめさばの酒かす和えです。
ではそろそろレシピを紹介しますね。
「鯛の昆布締め風」
全量 約100kcal たんぱく質22g
材料(作りやすい分量)
鯛刺身 1パック
昆布茶(粉末) 1杯分
作り方
- 鯛の刺身を昆布茶でもむ
*しっかりともみこみ10分ほど置くと締まってつやが出てくる。
昆布で挟むのではなく、昆布茶を使うんですね。
「しめさばの酒かす和え」
全量 約600kcal、 たんぱく質 約33g、食物繊維2g
材料(作りやすい分量)
しめさば 1パック
酒かす 30g
白みそ 小さじ1
ゆず果汁 1個分
作り方
- 酒かすにゆず・白みそを混ぜ、しめさばを和える
「めんたいクリームチーズれんこん」と「奈良漬クリームチーズ」のレシピを紹介します。

12月も後2週間で終わり、令和2年を迎えます。今日は久しぶりに雨の一日。少し暖かく、なんとなく生温い感じの一日でしたね。
診療所の中にいると、師走の雰囲気は全く感じません。きっと診療所の外は、みなさん年末年始に向けて慌ただしくされているのでしょうね。
1月のレシピは「新春レシピ」と言うことで、お正月にあったレシピを紹介しています。
前回紹介した「ケークサレ」はクリスマスにも合う料理だったと思います。
今回の「めんたいクリームチーズれんこん」と「奈良漬クリームチーズ」は管理栄養士さんも書いていますが、日本酒でもワインでも合う料理で、酒のつまみになりますね。年末の紅白歌合戦やお正月のテレビを見ながら今回のレシピを肴にのんびりお酒を飲むのもいいかもしれませんね。
ではレシピを紹介したいと思います。
その前に管理栄養士さんからのコメントを紹介しますね。
「れんこんを花形(梅)に、ブロッコリーの芯をゆでほうれん草で束ねて門松に(竹)、きゅうりの奈良漬で(松)と松竹梅の日本酒にもワインにもあうおつまみにしました。」
「めんたいクリームチーズれんこん」
- ①れんこんは皮をむき塩ゆでする。
- ②クリームチーズと明太子を1:1で和える。
- ③れんこんの穴に詰め、好みの厚さに切る
「奈良漬クリームチーズ」
フランスパンをうすく切ってトーストし、クリームチーズと奈良漬をのせる
今回のレシピは簡単ですね!試してみて下さいね。
「ケークサレ」のレシピを紹介します。

12月も半分が終わりました。今年ももう直ぐ終わってしまいますね。早いものです。
年末に向けて、クリスマスや忘年会などまだまだ行事ごとは続きますね。
ここ数日、少し寒さが和らいでいるような気がします。
渡邉医院の中庭の紅葉は、少し遅いですが赤く色づき、今が見ごろになっています。
玄関前のハナミズキは、残っていた最後の葉も落ちてもう冬です。
山茶花は蕾もまだまだありますが、こちらも見ごろかなあと思います。
さて、今日は「ケークサレ」のレシピを紹介しますね。
今回も「ケークサレ」と聞いて「それって何?」と思いました。チョット調べてみると、フランス料理で、塩味のきいた甘くないケーキと言うことです。
キッシュに似ていて食事のおかずや、お酒ののつまみ、またおやつにもいいようです。見た目はパンケーキです。
ケークサレは「sale(サレ)」=塩、「cake(ケーク)」=ケーキの意味だそうです。チーズや野菜、肉などを具として入れてパウンドケーキ型で焼いた料理です。
お正月にもいいですが、これから迎えるクリスマスの料理の一品でもいいかもしれませんね。クリスマス風にデコレーションしたら豪華になりますよね。
では「ケークサレ」のレシピを紹介します。
「ケークサレ」
1本分 約700kcal、たんぱく質 約30g、食物繊維 約10g
材料(2本分)
ホットケーキミックス 1袋(150g)
おからパウダー 30g
卵 2個
牛乳 100cc
オリーブオイル 大さじ2
ブロッコリー 1/4本
玉ねぎ 1/2個
にんじん 5cm
かぼちゃ 5cm角
ベーコン 80g
チーズ 30g
作り方
- ①牛乳パックを立て半分に切り、口の部分をホッチキスでとめて、深さ3cmの焼型を2つ作る。
- ②具材をすべてコロコロに切る。
- ③ブロッコリー、人参、かぼちゃはゆでるか電子レンジでチンする。
- ④玉ねぎ、ベーコンはフライパンで炒める。
- ⑤ボールにホットケーキミックス、おからパウダー、卵、牛乳、オリーブオイルを混ぜ、③④チーズを混ぜて、①の型に半分ずつ流す。
- ⑥180℃のオーブンで20~30分焼く。
*オーブンがなければフライパンでホットケーキのように焼いても、マグカップに入れて電子レンジでチンして蒸しパンにしてもおいしいです。
追悼・中村 哲医師

12月に入って、訃報が突然報道されました。
それは12月4日、アフガニスタンの地で人道的支援を行ってきたペシャワール会の現地代表、中村哲医師が銃撃され命を落とされたという報道でした。
突然の報道に驚きました。というのも、中村氏には、京都府保険医協会の第66回定期総会で「アフガニスタンに命の水をー国際医療協力の30年―」という講演をしていただいたことがあるからです。
アフガニスタンの住民の命は医療だけでは守れない。飢えや渇きは薬では治せない。こう考えた中村氏は、命を守る水の確保のため、診療所の近くの井戸の再生を始められました。最終的には1600か所になりました。また、「緑の大地計画」を立ち上げ、大河川から水を引く灌漑用水建設を始め、荒廃した大地の再生に取り組まれました。なぜ、アフガニスタンの地でこのような取り組みができたか?ある対談記事にこう語っておられました。
「僕は憲法9条なんて、特に意識したことはなかった。でもね、向こうに行って、9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。政府側も反政府側も、タリバンだって我々には手を出さない。むしろ、守ってくれているんです。9条があるから、海外ではこれまで絶対に銃を撃たなかった日本。それが、ほんとうの日本の強味なんですよ。」
そんな中村氏が銃弾に倒れました。
今、日本をアフガニスタンの人々はどうみているのでしょうか。平和憲法を捨て、戦争が出来る国に向かっているとみているのかもしれません。
今回は少し長くなりますが、中村哲医師の追悼の意味で、2013年の京都府保険医協会の第66回定期総会での講演の内容を紹介したいと思います。
この記事は、京都府保険医協会・京都保険医新聞第2880号より転載いたしました。
講師の中村哲氏
医師。ペシャワール会現地代表。PMS(ピース・ジャパン・メディカル・サービス)総院長。1984年パキスタンのミッション病院ハンセン病棟に赴任。その傍ら難民キャンプでアフガン難民の一般診療に携わる。1989年よりアフガニスタン国内へ活動を拡げ診療を開始。2000年からは旱魃が厳しくなるアフガニスタンで飲料水・灌漑用井戸事業を始め、2003年から農村復興のため大がかりな水利事業に携わり現在に至る。
アフガニスタンで30年におよび医療と農業の復興支援活動を続けるペシャワール会。「飢えと渇きは薬では治せない」と1600本の井戸を掘り、2003年からは農業用水路の建設を開始した中村哲医師を講師に、2013年7月28日開催の第66回定期総会で記念講演会を開催した。以下、概要を紹介する。
みなさん、こんにちは。本日は、アフガニスタンで何が起きたのか、今何が起きつつあるのかについて、私の活動を通して紹介したいと思います。その中で1人の医師として黙っておれないこともたくさんあります。そういったことについてもぜひ知っていただきたいと思っています。
アフガニスタンという国
アフガニスタンは日本人にとって世界でもっともわかりにくい国のひとつだと思います。実は30年活動してきた私自身もいまだよくわかりません。
私が医学部を卒業したのが1973年です。それから40年後、まさか自分がアフガニスタンの川の中で重機を自ら運転して作業していることになるなんて、想像できませんでした。人生というのは思うようにならないものだとつくづく思います。
簡単に現地の説明をいたします。日本ではペシャワール会といいますが、現地ではジャララバードという町を拠点に、PMS(PeaceJapanMedicalServices)という団体が活動を続けており、財政を支えているのがペシャワール会です。両団体はそういう関係です。
アフガニスタン、あるいはパキスタンがわかりにくいことの一つに、国境がはっきりしないことがあります。私たちの活動の中心は両国の国境地帯です。もちろん国際法上の国境はありますが、しかし実際の人びとの生活において、どこまでがアフガニスタンでどこまでがパキスタンなのかよくわかりません。事実上国境がないのに国際法上は存在しているといった状況なのです。
ペシャワールは現在戦乱のちまたで、そのためPMS本部をジャララバードに移して活動を続けています。PMSは医療団体で、現在も診療所を運営しておりますが、活動の主体は水路工事です。これについては後でくわしくご説明します。現地には職員百数十人がおりまして、日本のペシャワール会に寄せられる募金に頼って活動が続けられております。
アフガニスタンは山の国です。日本でいうと、長野県や山梨県を大きくしたような国です。国中、山だらけです。面積は日本の1・7倍、人口は2000万人前後です。それぞれ深い谷ごとに違った民族が居住するといってもいいくらい、多くの民族によって成り立っている複合民族国家です。各民族に共通していえるのは、国民の9割以上が農民、または遊牧民で、都市生活者は元来少なかったということです。かつての食糧自給率は96%で、ほぼ自給自足に近い農業国でした。
中央アジアの乾燥した地域で、どうしてそれだけの人びとを養えたのかというと、山々に降り積もる雪のおかげでした。ヒマヤラ山脈を西に行くと、カラコルム山脈、ヒンズークシ山脈という高い山々がありますが、このヒンズークシ山脈がアフガニスタンのほとんどの部分を占めています。6000メートル、7000メートルを超えるこれらの山々に雪が積もり、氷河をつくっています。それが夏に少しずつとけてきて、何万年か、何十万年かわかりませんが、川沿いに豊かな実りを約束します。この水により、人も動物も植物も命を永らえてきた。現地の有名な言葉に、「アフガニスタンでは金はなくても食べていけるが、雪がなくては食べていけない」というものがあります。
もう一つ、アフガニスタンを特徴づけるのは、谷ごとに国があるといっていいくらい、いろんな民族の人たちが住んでいることです。悪くいえば地域の割拠制、良くいえば地域の自治制が非常に濃厚なところです。我々は「国」というと、中央集権的な政府があって、法律一下、国中が治まっているという状態を想像しますが、アフガニスタンはそれぞれの地域が大事なことは自分たちで決める。それのまとめ役としてシンボル的に政府が存在する。
例えば隣の村で侵入してきた勢力に対して戦闘が行われているときに、その隣の村は中立を守っているということだってあるのです。こういった国の在り方というのは明治以前の日本では見られましたが、なかなか現在の日本では分かりにくい点があります。
三つ目の特徴として、国民の100%近くがイスラム教徒であることです。しかも現存するイスラム教徒の中ではもっとも保守的です。保守的だから悪いということではありません。彼らはイスラムの伝統に従い、さまざまな民族が暮らしている中で、かろうじて彼らのまとまりをつくっています。イスラム教を抜きにアフガニスタンを語ることはできません。
どんな町や村に行っても、大きなモスクがあります。モスクが地域の中心になっており、そこでいろんなもめごとが解決されていくのです。共同体の要をなしている伝統的な文化なのです。
現地の文化を受け入れるということ
私たちの活動はハンセン病のコントロール計画から始まりました。しかし、実際努力の大部分は、一見医療とは関係がないと思われるところです。そこにエネルギーを費やしてきました。中でも苦労するのが、患者の気持ち、その地域に暮らしている人たちの気持ちをいかに理解するかということです。
外国人が犯しやすい過ちは、自分が見たことがないもの、見慣れないものに遭遇すると、つい自分たちの物差しで判断してしまうことです。このことで現地とのトラブルが絶えず、志半ばで帰国してしまう外国人が非常に多いのが現実です。
私たちは、現地の習慣を変えるために医療をしているわけではありません。人の命が助かるために仕事をしているわけです。私たちがその地域の文化にかかわる際には、好き嫌いの問題はあろうけれども、いっさい批判的な目で見ない、それをそのまま受け入れることを鉄則にしています。
たとえば、女性の被り物(ブルカ)について、その是非が世界中で議論されていますが、被り物をまとうかどうかはその地域の人が決めていくことであって、外国人がとやかくいうことではありません。
戦争に巻き込まれる
私たちが活動を始めた1984年はアフガン戦争のまっただ中でした。アフガン戦争とは78年12月、当時世界最強の陸軍といわれたソ連軍の精鋭部隊約10万人が大挙してアフガニスタンに侵攻することではじまった戦争です。以後約9年間、アフガニスタンは戦乱の中に置かれ、この戦争で死亡した人は200万人、さらに600万人もの人が難民となって国外に逃れる事態になりました。先ほど申し上げましたが、私たちが活動を始めていた地域はパキスタンですが、アフガニスタンとの国境は事実上は明確なものではありませんので、私たちもこの戦争に巻き込まれていくことになったのです。
私たちは、戦争が下火になった暁には、ハンセン病多発地帯、すなわちそこは他の病気の多発地帯であり、しかも医療施設がほとんどないという地域ですが、そこに診療所をつくり、一般診療を行いながら、ハンセン病も他の感染症の一つとして特別扱いすることなく診るという方針を立てました。その方針のもと少しずつ動き出したわけです。
当時、表向きは国境は閉鎖されていました。しかし先ほども申し上げた通り、アフガニスタンとパキスタンとを隔てる2800キロメートル全体を閉鎖することは絶対できません。我々も山を越えて診療所開設予定地の人びととつきあいを深めていきました。
88年ソ連軍の撤退がはじまると、ただちに診療所開設の準備を始めました。91年から92年にかけて、戻ってくる難民たちを迎えるような形であちこちに診療所を建てていきました。
そうこうするうちに15年が経ちました。先はまだ長いということを悟り、98年ペシャワールの一画にPMS基地病院を建設しました。新たな活動の第一歩です。日本からの補給がある限り、何十年でもがんばろうという体制ができたわけです。
人類史上例をみない大干ばつ
ソ連軍が撤退した後もごたごたが続きましたが、タリバン政権の登場により国は落ち着きを取り戻しはじめました。政治的、宗教的なことは別として、この30年間でアフガニスタンでもっとも治安のよかったのはタリバン政権の時期です。路上に物を置いてもなくなることがないほどです。我々の仕事もこれでやりやすくなると思った。しかしその矢先に襲ってきたのが大干ばつでした。
2000年5月、WHO(世界保健機関)が世界中に訴えた内容は鬼気迫るものがありました。現在進行中の中央アジアにおける大干ばつは、13年の今も進行していますが、これは人類が体験したことのない規模であり、中でももっとも激烈な被害を受けているのがアフガニスタンである。被災者1200万人、国民の半分が被災し、うち600万人が飢餓線上にいる。さらに100万人が餓死線上にいる、というものでした。
01年のアメリカによるアフガニスタンへの空爆前というのは、このような状況だったのです。我々の診療所の周辺でも、見る見るうちに村が消えていきました。昨日まで住んでいた人びとが今日になるともういなくなる。まったくひどい状態でした。しかもそれは今も進行中なのです。なぜこのことが世界中に知られていないのでしょうか。不思議でなりません。ときおり報道されることといえば、タリバンとの和平交渉がどうなるか、あるいは外国兵が何人死に、タリバン兵、市民が何人死んだのか、ということばかりです。人びとが困っている肝心な点についてはほとんど報道されることはありません。
空爆前にもっとも多かった病気は、腸管感染症、とくに赤痢でした。農業ができず、食べ物を手に入れることができなくなり栄養失調になる。それで免疫力が低下する。とくに子どもですが、咽の渇きに耐えきれなくて汚水を飲んでしまう。今日の日本で赤痢で死ぬ人はいませんが、脱水状態になると、アフガニスタンは簡単に死んでしまうのです。
子どもが一番の犠牲者でした。飢えや渇きは薬では治せません。とにかく水を確保しなくてはならない。我々は、まず診療所の周囲の枯れた井戸の再生をはじめました。00年8月から数年間続け、最終的には1600カ所に清潔な飲料水を獲得することができました。これは20数万人の村人が難民化することを食い止めるという大きな仕事に発展しました。
空爆では解決しない問題
そうこうしているうちに、01年9月11日を迎えます。ニューヨークでテロ事件が発生、そのテロ首謀者の属するアルカイダの頭目が当時のタリバン政権にかくまわれているということで、事件の翌日からブッシュ大統領は「アフガンに報復爆撃を行う」「十字軍を引き起こす」と発言しました。私自身、キリスト教徒でありますが、十字軍などと物騒なことは聖書のどこにも書いてありません。しかも報復爆撃などという野蛮な行為は到底認められるものではありません。
アフガン問題とは水と食糧の問題であって、爆弾で解決する問題ではありません。当時カブールに残っていた百数十万人の人びとのほとんどは、もともとのカブール市民ではありません。干ばつで食べられなくなり田舎から逃れてきた国内避難民です。まず彼らに食べ物を届けようと、日本で支援を呼びかけ寄付を募り、1800トンの小麦粉を空爆下で配給しました。
これに従事したのは我々の職員20人です。彼らはまさに決死隊です。当時の日本での報道では「アメリカの空爆はピンポイント攻撃といって、テロリストだけをやっつけて一般市民には迷惑をかけない人道的な爆撃である」と解説されていました。
しかし、実際は無差別爆撃でした。爆撃で亡くなったのはほとんどが逃げ足の遅いお年寄りや女性、子どもでした。そういう空爆下での食糧配給でしたが、幸い無事にやり終えることができ、この配給がなければ餓死したであろうカブール市民10数万人の命を救うことができたのです。PMSの活動は私一人でやっているように思われていますが、実際は同胞のためなら死を顧みないというこのような勇敢な職員たちの手によって進められてきたのです。
映像の力はものすごいものがあります。01年11月になるとタリバン政権がスッと首都から消えます。その後北部同盟というタリバンとはライバル関係にあった勢力がアメリカの後押しで首都に入ってきます。このときに、世界中が映像の力により騙されてしまいます。悪の権化タリバンを追い出し、自由と正義の味方のアメリカ同盟軍である北部同盟を歓呼として迎える市民の姿の映像です。この映像はくり返し世界中に流されました。
これにより、それまでアメリカの戦争に反対していた人たちも、いろいろあったけどこれでよかったのかなあと受け止めたように思います。以後、アフガン問題は人びとの中から忘れ去られていくことになりました。
アフガンにもたらされた「自由」
しかし、実際には何が起きていたのでしょうか。干ばつは治まっていません。今も進行中です。タリバン政権の崩壊により「自由」と「解放」はもたらされました。では何か自由になったのでしょうか。ケシ栽培の自由です。それまで絶滅されていたケシ栽培は、米軍の進駐とともに盛大に復活しました。数年を待たずして、アフガニスタンは世界の麻薬の94%を供給する麻薬立国になってしまったのです。
女性も解放され、自由を得ました。しかしそれは、一家の働き手を爆撃によって失ったあと、生活のために乞食をする自由です。外国兵相手に売春する自由です。貧乏人には餓死する自由が与えられました。英語が流暢で外国人におべっかを使うのが上手なアフガン人が裕福になっていく自由もあります。
99%の人の立場から見るのか、1%の人の立場から見るかでそれは違うかもしれませんが、私のこの見方は正しいと思います。
私たちPMSは水を確保する活動を続けました。しかし、これまでのような飲み水を確保するだけでは十分ではありません。農業ができるようにならなければいけない。
しかし、現地の伝統的な灌漑法では何度我々が再生を試みてもすぐに枯れてしまうのです。地下水利用も限界に来たということです。地表水に頼らざるを得ない、というのがこの時期私たちが至った結論でした。
簡単にアフガニスタンで起きている気候変動について説明しおきましょう。気温が上がり、それまでは少しずつ溶けていっていた山の雪が一気に溶けるようになり、洪水が頻発するようになり、川から農地への取水口が簡単に壊れるようになります。洪水は頻繁に起こるようになったものの、水が必要な時期にはまったくないという状況が生じました。水が取りこめなくて、農地が荒れていく。さらに山間部では雪が大量に溶けるので、地上に水が滞留する時間が少なくなり、地下水が年々減っていきます。そして、乾燥化が進む。この悪循環が進行しています。
「緑の大地計画」のスタート
人間は食べなくてはいけません。地下水源が枯れてきている以上、それより大きな大河川から取水する以外にありません。100の診療所をつくるよりも1本の用水路をつくったほうが人びとを救うのです。そして02年1月に立ち上げた「緑の大地計画」のもと、03年3月に潅漑用水路建設を始めました。最終的に25キロ、3000ヘクタール、10数万人の農民が救われるという成果を達成しました。
初めは重機1台を手に入れるだけで半年以上かかりました。皆がこんなことで水路の建設なんてできるのだろうかと思いました。そして、用水路の維持・管理はさらに難しいものです。それを誰が行うのか。他ならぬ現地の農民たちです。地域の人びと自らの手で維持・管理していかねばなりません。補修しなければならないことがあっても、農民たちは重機を扱う業者を簡単に雇うことはできません。だから、現地の人びととともに、手で修復可能となる工法に基づく水路をつくらなければなりませんでした。
そこで取り入れたのが、日本の技術でした。日本とアフガニスタンは全然違う国のようですが、地理条件については似たところがあります。急流河川が多いということと、水位差が大きいということです。夏に台風が来ると水位は一気に上がるが冬はカラカラになる。ですから、川から水を取り込む技術は似ているのです。そこで、住民の手で維持・管理できなければいけないことを考え合わせて、日本の伝統的な技術に着目しました。取水口については福岡県朝倉市にある山田堰をモデルに、そのコピーをアフガニスタンのあちこちにつくりました。この取水堰のすぐれている点は1年を通して欲しいときに欲しいだけの水をとることができる点です。護岸整備の技術も、コンクリートではなく、蛇籠工といって針金で編んだ籠に石を詰めたものを使い、護岸壁にする工法を採用しました。アフガニスタンでは石材は豊富にあります。現地の農民も石の取り扱いには非常に慣れています。これだったら自分たちで維持・管理ができると考えました。
鉄筋コンクリートを使った三面掩蔽の水路は、水害などで壊れると補修は土木の専門家でしかできません。現地ではそんなことは到底できません。蛇籠のよさは壊れにくいことです。例え壊れても、地元の人でも簡単に補修できます。実際これまでも何度か洪水に遭いましたが、洪水で壊れたところはほとんどありません。それくらい強じんなんです。日本でも見直されている工法です。
もちろん鉄筋コンクリートが全然いらないということではありません。ものすごい土石流が流れてくる、ダラエヌール渓谷では地下に大規模な工事を行いました。
天・地・人
05年から次々と村が復活します。つまり灌漑用水路の効果が現れはじめたのです。改めて水の威力に驚かされました。大勢の人が村に戻り、暮らせるようになっています。
ガンベリ沙漠というとてつもなく大きな沙漠地帯まで7年かけて用水路を完成させました。沙漠では真夏は摂氏53度にまでなります。そんな中での作業です。次々と作業員は倒れていきました。それでもみんな作業をやめようとしませんでした。彼らはほぼ全員難民だったのです。彼らの願いは二つだけです。一つは、三度三度ごはんが食べられること。もう一つは、自分の故郷で家族とともに平和に暮らすことです。この用水路が完成すると、家族を呼び寄せて家族一緒に仲良く暮らすことができる。しかし失敗すれば、また難民生活が待っている。こういった生死の瀬戸際で必死に生きようという思いがエネルギーとなったのです。これは決してきれいな話ではありません。
こうして09年8月4日、ガンベリ沙漠に全線25キロメートル近くの用水路が開通しました。このときみんな「これで生きられる」と口々に言いました。かつての沙漠が現在、アフガニスタンの中でもっとも豊かな地域になりつつあります。
私たちの活動方針は天・地・人に要約することができます。難しいことではありません。その地域の自然条件を読み取り、文化を尊重し、そこで暮らしている人が何を考え、何を欲しているのかを十分読んだ上で、暴力的な方法によらず、その地域の幸せを回復するということです。私たちはこれを固い方針としてきました。
先ほども言いましたが、アフガニスタンの人びとにとってモスクは共同体の要となるところです。人が戻ってきてもモスクがないと村は成り立ちません。しかし、なかなかそれを建てることができない。村の中心となるような大きなモスクには、マドラサと呼ばれる教育施設が付属するのですが、マドラサはイスラム過激派の温床であるという国際的な認識があったため誰も建てたがらなかったのです。反米主義者とレッテルを貼られ攻撃されるからです。そこで我々が建てることになりました。このモスク建設により、村のもめ事その他は丸くおさまるようになりました。
先ほどガンベリ沙漠を横断する水路建設について触れましたが、現在開墾が少しずつ進んでいます。開墾を可能にしたのは、水だけではなく、砂防林の造成です。こんな沙漠に本当に林なんかができるだろうかと思いましたが、成功しました。木の成長がとても早くわずか4、5年で10メートル以上も伸びます。これにより現地が完全に開墾されるのはそう遠いことではないだろうと思っています。かつての不毛な沙漠は今地域でもっとも豊かな場所になりつつあるのです。
こうして私たちは安定灌漑地域を増やしていきました。安定灌漑というのは水が必要なときに必要なだけの量を配ることができる給水システムです。要らないときに水が余り、要るときに足りないという状況がこの何十年間ずっと続き、生産力が落ちていました。そういった地域が次々と復活していき、昨年から取り組んでいる連続堰505メートルが成れば、約1万6500ヘクタール、65万人もの農民が食べられる生活空間を実現することができるのです。
迷信の虜になっているのは我々だ
この約30年を振り返って思うことは、人間と自然との関係。人間はどこに行くのかという問題です。私たちは、技術にしろ政治にしろ、進歩とか改革という言葉に弱い。アフガニスタンについて、今日は戦争とか難民といった話ばかりをしてきましたが、彼らが暗い顔をして生活しているかというとそんなことありません。助っ人として日本からやって来る若者の方がよほど暗い顔をしています。これはいったいどういうことなんでしょうか。幸せというのは金さえあればなんとかつかめる、武器さえあればこの身を守ることができるという迷信の虜に、日本中あるいは世界中がなっているのではないでしょうか。そう考えれば私たちがこの迷信から自由でいられるのは役得であると思っています。
今世界中が曲がり角にあります。私たちは重要なことは何か。何が必要で何が必要でないのか。見極める必要があるのではないでしょうか。これで私の話を終えたいと思います。ご清聴ありがとうございました。