今回作成した「痔の専門家が教える痔のはなし」の中に「肛門科医の徒然日記」というカテゴリーをつくりました。
医療だけでなく、私が感じていることや思いを語れる場所があったらいいなと思ってつくりました。
その第1回目に何を書こうかなと思ったとき、医療に関して、今の私の基礎をつくって下さった4人の先輩のことについて話そうと思いました。
私は今年の2月で58歳になります。京都に帰ってきて24年が過ぎます。あっという間の24年でした。今から思うと、34歳という若さで帰ってきて、よくやってこれたなとういう思いがあります。
当時母親も、「賢は患者さんとちゃんと話すことが出来るだろうか?」、「手術ができるだろうか?」と、とても心配していたようです。私が帰って来る前に手術を決めた患者さんみんなに電話をかけ、「元治(父のことですが)が病気になったので、息子が手術をしますがいいでしょうか?」と確認をとってくれました。みなさん私が手術をすることを承諾していただけました。中には、「お父さんのDNAを受け継いでいるから大丈夫ですよ。」とおっしゃった方もいたようです。また私の経歴を聞かれたかたもいました。たまたまその年の日本大腸肛門病学会で、私が書いた論文が学会賞を受賞していました。内容自体は肛門疾患にはまったく関係なく、「潰瘍性大腸炎患者大腸上皮におけるサイトカインの遺伝子学的検討–とくにTNFα、IFN-γのm-RNA発現について」という題名で、潰瘍性大腸炎に関しての論文でした。でも、このことも患者さんに信頼される一因となったようです。
私が診療を始めてから1週間ほどたってからは、患者さんがぱったり受診されなくなり、とてもあせった時期がありました。ねっとわーく京都という雑誌に載せてもらっている当院の広告は、今は「ただひとすじに肛門科」で、とても気に入っているので変えずにいますが、それまでは両親とも嬉しがりのところもあって、洒落っ気たっぷりの広告を毎回変えて載せていました。私もとてもあせっていたころ、大胆にも「一代目、他界。二代目、闘病中。三代目、奮闘中。渡邉医院を救うのはあなたです。」といった広告をのせてもらったこともありました。そんななか、父の「なにをあせっているんだ。来た患者さん一人一人をしっかり診て治していけばいいんだ。」との一言で、落ち着きました。
この24年間を振り返ってみると、京都に帰ってきた当初は、保険点数もわからず、目の前の患者さんの診察をすることで精いっぱいでした。落ち着いてきてからは、診療の方法や体制を整えることができ、この24年間でずいぶん手術の方法も進化し、診療内容も充実してきたと思います。こんななか、何かの際にいつも4人の先輩のことを思い出します。
一人は、外科医になったばかりの私に患者さんをどう診ていくのかを教えて下さった先輩です。私が医者になったころは今のように臨床研修医制度はなく、国家試験に合格した後、自分の行きたい医局に入局し、すぐに外科医として仕事を始めました。新入医局員は、まずは病棟で入院患者さんを診ることになります。当時は病棟には4人から5人体制の班が3班ありその一つの班に配属されます。
初めて仕事に病棟に行ったとき、班長だった先輩に「納得がいく説明がしっかりできるならば自分の思ったとおりにやってみなさい。」と言われました。この最初の言葉は今でも覚えています。
二人目は、私に手術を徹底的に教えて下さった先輩です。そのころは講師だったと思いますが、手術の腕は全医局員が一目置く人でした。ちょっと一匹狼っぽいところがあって、我が道を行くというタイプでした。でも、大学病院での手術となると後輩の教育のために自分の技術を見せるように、今何をしているのかをわかりやすく、しかも素早く手術をしていました。なぜか私を気にかけてもらって、大学の関連病院で手術があるときなどは、「今から手術に行くよ。一緒においで。」と声をかけてくれました。ここでも自分の手術を私に十分にみせてくれました。
この先輩には、「どんな状況でも冷静に自分の手術が十分に出来るようになりなさい。」と。また、「自分の限界の手術をしてはいけない。80%の力で手術をし、その80%の手術のレベルをアップしていきなさい。」とも言われました。
三人目は前の二人の先生が教えて下さったことを影で支えながら実践させて下さった先生です。
医者になって3年が過ぎると、週に1から2回関連病院に出向します。その関連病院の院長です。
患者さんの治療について話した時、「わかりました。しっかり患者さんを治療してあげて下さい。」とそれ以上のことは言わずに私にまかせてくれました。
手術の際はこの先生と一緒にしたり、大きな手術になるときは、前述の先生にきてもらって一緒に手術をしました。術後は大学での仕事が終わったあと、毎日診察に行きました。大学では内科から診断のついた患者さんを手術して治すのに対して、ここでは外来で診察し、検査も自分で行い、手術、術後の管理、全てを自分で行わなければなりません。ここでの勉強が私にとってとても大切な時間でした。今の診療にも大きな影響をあたえています。
最後の4人目は、前述した論文を書く際に指導してもらった先輩です。大学病院にいた時は、同じ医局内でもさまざまな研究班があって、そこで研究します。
私は大腸肛門班という研究班があってそこに所属していました。
新しいものを見つけるために、それに関連するいろんな文献を読み、そこからなにか新しいものを推察して、推論をたてる。それを証明するにはどういった方法があるか、そしてどんな実験が必要なのか、科学的にものを考えることを教えてもらいました。
思ったとおりの結果がでなかったときは、始めにもどってその推論が正しいのかを徹底的に一緒に検討しました。また同じ実験をしても違った結果が出た場合は、その原因はなんなのか追及し、試薬を始めから作り直したりして何度も同じ実験をくりかえしました。こんな時も最後まで一緒に付き合って夜中まで、場合によっては徹夜して付き合ってくれました。今でも学会等であった時は、このころのことを話しています。
私は、このような先生方に指導していただくことができ幸せだと思います。
最近、大学時代の先輩と学会などで話をする機会があり、指導して下さる年代の先生が少なくなっていることを聞きました。私達の時代のように、個人個人の特性に合わせてじっくり指導することが難しくなっているようです。医師の不足なども影響して、日常の診療に追われることで、十分な指導ができなくなってきているのかと思います。
今、医師不足のことが社会問題になっています。今現在の医療を守るために医療体制を改善することが必要ですが、これから未来に良い医者、良い医療をつくり守るためにも余裕をもって若手を育て指導できる体制を早急につくっていかなければならないと思います。
先輩が「患者さんの容態は刻々と変化していく、ちょっとした変化を見逃して後手後手に回らないようにしっかり診察しなさい。」とおっしゃいました。現在の社会や医療の状況も同様に刻々と変化しています。しっかりその変化を見据えて、後手後手に回らないようにしなければなりません。私たち一人ひとりが、今何をしなければならないかをしっかり考えていくことで、今の状況を変えていくことができるはずです。
もうすぐ私も京都に帰ってきて25年目に入ります。四半世紀です。更なる進化をめざしてパワーアップしていかなければと思います。
2018.01.22