今日、8月6日は広島に原爆が投下された日。73回目の原爆の日を迎えました。
広島では、平和記念公園の原爆死没者慰霊碑の前で、広島原爆死没者慰霊式と平和祈念式が行われました。
私の父は生前、反核平和の運動に取り組んでいました。父は広島に原爆が投下されたとき、江田島の海軍兵学校にいました。その江田島で経験したこと。そして終戦を迎え、京都に帰って来る時に原爆が投下された広島の悲惨な状況を直接自分の目で見て体で感じ、目の当たりにしました。こういった経験があったからこそ、父は反核平和の運動に取り組むようになったのだと思います。今から思うと残念ですが、私は生前父とそういったことに関して全く話す機会はありませんでした。今から思うと、もう少し広島で父が経験したこと、戦争のことについて話しておけばよかったなと思います。そういったこともあって、私は、父がその時のことを思い出して書いた文章を読んで、その時の父の思いを想像するしかありません。
父は16歳の時に広島の江田島にある海軍兵学校に入校しました。
この写真は入校当時の写真です。16歳です。この時にすでに父は日本のために戦争に行こう、おそらく国のために命を捧げてもいいと決心していたのだと思います。以前、旧海軍兵学校をみに行ってきました。レンガ造りのとてもきれいな建物でした。建物の前には美しい海が広がり、周りも美しい景色で包まれていました。こういった美しい環境のなかで、戦争への教育がされていたんだなと感じました。資料館も見学しましたが、父の名簿もありました。父は、この海軍兵学校で広島に投下された原爆、そして敗戦を経験しました。
広島に原爆が投下された時の状況を父はこう記しています。
「午前8時15分。手洗いに向かって歩いていた時、一瞬、何かがピカッとひかりました。さほど気にも止めず10歩程歩いたでしょうか?ドーンという大音響、爆風のため、1、2歩後退、校舎の壁のモルタルがバラバラッと落ちました。あわを食ってもぐりこんだ防空壕の外で「見ろ!見ろ!見ろ!」と逃げ遅れた連中が騒いでいるのでおっかなびっくり、防空壕を出てみると、古鷹山(ふるたかやま)より高く、高く、天然現象と思える入道雲が、モクモク、モクモク、上へ上へと成長していくのです。その雲の下でこの世の地獄が現出しているとはつゆ知らず「ガスタンクの爆発」が当時17歳で海軍兵学校の最下級生であった私が考える事の出来た、最大の爆発でした。」
この後父は江田島で終戦を迎えました。「8月15日、夢にも考えなかった敗戦。心の糸がプツンと切れて当日夜から翌日まで、ベッドの上でため息もつかず、何も考えず、級友や上級生ともども、ゴロッと寝転がっていました。こうゆうのを虚脱状態というのでしょう。」と綴っています。
この写真にあるように、父は原爆雲、そしてなにもなくなった悲惨な広島を目に焼き付けて京都に帰ってきました。この経験は父にはとって、人生を変える経験だったと思います。
さて、核兵器廃絶に向けての画期的な出来事が去年の7月におきました。
それは、7月7日に国連で「核兵器の禁止に関する条約」が採択されたことです。122か国の賛成で採択されました。条約の前文には、「核兵器使用の犠牲者(ヒバクシャ)と核実験の影響を被った被災者の受け入れがたい苦悩と被害に留意し」という一節が明記されました。この国連での採択の結果をみると確実に核兵器廃絶への時は刻まれていると思います。
この条約で具体的に何を禁止したかですが、核兵器禁止条約は前文と全21条から成り立っています。
第1条で、核兵器の開発、実験、生産、製造、取得、保有、貯蔵、移転又は管理の移転、移転又は管理の移転の受領、使用と威嚇、以上の禁止活動への支援、奨励、勧誘、禁止活動への支援、奨励、勧誘の受領、自国領域への核兵器の配備、設置、展開の許可が明確に禁止されています。
核兵器にかかわる主要な活動のほとんどを明確に非合法化しています。
そして、第6条 被害者に対する支援及び環境の修復という条文があります。その1項に
締約国は、自国の管轄下において核兵器の使用または実験によって影響を受けた個人に関して、適応可能な国際人道法及び国際人権法に従って、差別することなく、医療、機能回復訓練及び心理的支援を含む年齢及び性別に配慮した支援を十分に提供し、その社会的かつ経済的な包摂を提供する。
とあります。
日本がこの条約に参加すれば、広島・長崎の被爆者への援護施策を手厚く行うことが条約上の義務として国際的に求められることになります。
こういった国際的な核兵器廃絶の流れのなかで残念なことに、唯一被爆国である日本の日本政府の対応は、「我々はこの条約の構想に反対である。だから会議には参加しない」と発言して会議の場から退席してしまいました。
しかし、この会議では、日本政府が退席した後の席は空席として残され、そこに「折り鶴」がずっと置かれていました。その折り鶴には「Wish you were here」(あなたがここにいてほしい)とかかれていました。
私たち国民の核兵器廃絶への願いと日本政府の意識には大きな隔たりがあると思います。私たち国民の方が先を歩んでいると思います。
日本政府を条約に参加させるためには、国内で核兵器禁止条約参加の声を圧倒的な声とし、政府、議会に迫ることが必要です。そして、「核兵器のない世界」への流れを後押しするのが、被爆者が残りの人生をかけて訴えた核兵器廃絶を求める「ヒバクシャ国際署名」です。被爆者の方々の平均年齢は82歳です。本当に自分の命をかけた署名活動だと思います。
今日、広島に原爆が投下された日。私たちは決して忘れてはいけないと思います。そして、確実に全世界から核兵器をなくし、核兵器のない平和な世界を作らなければなりません。