保健所の機能の後退
しかしながら、新型コロナウイルス感染症は日本の感染症対策の弱点と限界を明らかにした。日本においては保健所が感染症対策の中核に位置付けられている。根拠法は地域保健法ならびに感染症法である。保健所は「公衆衛生に精通した医師」を司令塔に、パンデミックに際しては、疫学調査・防疫措置、住民への情報提供、保健指導の最前線に立つとされている。この保健所の機能の後退がコロナ禍に大きく影響した。保健所に関しては1994年の保健所法改正、地域保健法への移行を境に、保健所数は減少の一途をたどった。保健所設置の基準が人口10万人に1カ所から、二次医療圏単位に1カ所となったことによる。これを契機に保健所の数が激減した。
保健所の数を減らす政策がとられた理由に二つある。
1つは保健所の役割の変更である。地域保健法には新たに市町村保健センターが位置付けられた。それ以降、保健所が企画・調整業務、そして保健センターが身近な対人援助を中心とした保健サービスを担うこととなった。
2つめは地方分権改革である。地方分権推進委員会は、1996年、必置規制を解除する対象例に「保健所・児童相談所・福祉事務所」を挙げた。さらに保健所長の要件から医師資格を外すことも提言した。その結果、必置規制は残ったが、保健所の数は減少、保健所長の医師資格要件は「原則」化された。1989年に848カ所あった保健所は、2021年には470カ所まで減少した。職員総数も、約3万4千人から約2万8千人に減少した。医師数も4割以上減少した。
このように、国は永きにわたり保健所の役割を過小評価してきた。それは新興感染症の脅威に対する過小評価でもある。国は、結核患者の減少を理由に〝感染症の時代は終わった〟として、感染症研究所、衛生研究所、 保健所などを縮小し、公共サービスを削減してきた。
1950年代後半には、衛生環境の改善、医学の進歩で、結核が死亡理由の上位から姿を消した。それに代わって、悪性新生物などの非感染性疾患が健康課題の上位に位置づけられるようになった。そのため、がんを含めた、慢性疾患、「成人病」への対応が強く求められるようになった。感染症対策は後景に置かれるようになった。
保健所の衰退は、1996年の橋本政権の発足と1997年の「地域保健法」の全面施行から始まる。日本でも新自由主義改革が始まり、国の財政をグローバル化する世界経済に対応し得る企業支援に振り向けるため、医療など社会保障サービスにかかる費用の抑制が進められた。新自由主義改革によって「措置から契約へ」の転換が図られた。国は「社会福祉基礎構造改革」を推進し、1997年の介護保険法、2000年には社会福祉事業法を社会福祉法へと改正した。また、障碍者福祉サービスは「支援費制度」へ移行させた。このような「措置から契約へ」の転換は、当事者の自己決定を謳い文句に、本来国家が果たすべき社会保障責務を当事者と民間事業者の契約関係に置き換えたにすぎない。
市町村保健センター
「地域保健法」によって、新たに市町村保健センターが設置され、同センターが身近な対人援助を中心とした保健サービスを担うことになった。その際、保健所から市町村保健センターに移管した業務が早々に民間事業者に委託されてしまった。その結果、市町村センターの対人援助業務は縮小化し、当然、機能の縮小を促す要因となった。さらに、2008年には老人保健法が廃止され、後期高齢者医療制度に移行した。また、旧来の老人保健事業の根拠を、64歳までは健康増進法へ、65歳以上については介護保険法における一般介護予防事業に付け替えた。また、市町村が実施していた基本健康診査を廃止して、保険者が実施主体となる特定検診・特定保健指導へと変えられた。このように、「地域保健法」以降、それまで保健所や市町村保健センターが担ってきた事業が地滑り的に自治体から切り剝がされるようになった。
次回は「コロナ禍でも変えない国の医療政策」から始めます。