私が中学生の頃、通っていた中学校がキリスト教の学校であったので、毎朝8時から学校の敷地内にあるレンガ造りのチャペルで礼拝がありました。そこで牧師さんや、いろんな方が話をして下さり、聖書を読み、讃美歌を歌っていました。もう45年以上も前のことです。そこで聞いた話が今でも何かの折に私の脳裏にフッと浮かんできます。
話の内容はうろ覚えですが、こんな内容だったと思います。
ある産科医がお産に立ち会っていた時、お母さんのおなかの中にいる赤ちゃんの足が片方無いことに気が付きました。産科医は片方の足がない子が生まれてきて、幸せに生きていくことが出来るだろうかと考えてしまいました。私がこの赤ちゃんを取り上げるのにもう少し時間をかけると、この赤ちゃんは死産として生まれてくる。どうするのか?と迷っているときに、赤ちゃんの足が力ずよくその産科医の手を押しました。その力に産科医は思わずその子を取り上げ、無事生まれてくることができました。ただ、片足はありませんが。
この後、この産科医は、この子が生まれてきて本当に良かったのか、死産とした方が良かったのかとずっと悩み続けていました。
何年か時が過ぎ、その産科医がある教会に行くと素敵な演奏をしていました。その中に素敵な音色で心を癒すハープを演奏している奏者がいました。演奏が終わり産科医がその奏者に合うと、その奏者は、自分が取り上げた片足のない赤ちゃんでした。
このことを知った産科医は、自分が取り上げた赤ちゃんが素敵な奏者になっていることを喜んだと同時に、出産の時にその子の命を奪おうと、ふと思った自分を悔いた。
上手くその時の話を伝えることが出来ませんがこんな感じの内容の話だったと思います。
生まれてこようとする命。今この世に生きている私たちが今から生まれてくる命の意味や意義を決めることはできません。生まれてきた命が、その命自身が生まれてきたことの意味、意義を見出していくのだと思います。そしてその命が生まれてきた意味や意義を見出していく、そんな姿に私たちは感動するのだと思います。
私の母は認知症が進んできています。私のことを息子だと認識してくれているかなあと思いますが、それも危うく感じることもあります。
私が好きになれない言葉に「生産性」という言葉があります。「生産性」という言葉を使っている人たちにとっては私の母は全く「生産性」の無い存在です。でも「生産性」って何なんでしょう。私の母が何か生み出すことが出来なければ存在する意味が無いということでしょうか?そんなことはありません。
一緒に食事をしたり、コンサートに行ったりすることがあります。コンサートに行ったときなど、体を少し揺らしながら、手でリズムをとりながら穏やかな表情で楽しそうに聴いています。また食事の時などは優しい眼差しをして「これ食べる?」と母親に戻り、私を気遣ってくれます。
また小さな子供たちを見ているとき、優しく微笑んだり、時にはこんなに笑うかと思うほど、顔をクチャクチャにして笑います。そんな母の笑顔が私は大好きです。そんな母の笑顔をずっと見ていたい。そんな気持ちを私に与えてくれる。そしてそのことで私自身が優しい気持ちになることが出来る。そんなことを教えてくれる、そのことが私にとって、母のいる意味、意義だと私は思います。
どんな状況にあっても、そこで生きているということは、自分自身だけでなく、自分の生きている周りの人たちすべてにその意義、意味を与え続けているのだと思います。
今、新型コロナウイルスの感染が拡大しています。自分の命がどうなるか、これからの生活がどうなっていくのか、新型コロナウイルスの感染の収束がまだ見えない中、恐怖や無案が皆さんを襲っていると思います。そんな中、新型コロナウイルスの感染拡大以上に、「人の心を蝕むウイルス」、「人への思いやりという心を壊していくウイルス」の感染拡大が残念ながら広がってきています。この目に見えぬ心のウイルスの感染拡大は、私たち自身で感染拡大を止めることが出来ます。すぐにでも収束させることが出来ます。
自分の大切な人たちの優しい笑顔を見続けていられるように、今私たちは人を思いやる気持ちを忘れてはいけないと思います。誰もが今、とても苦しい状況にいます。皆さんと共にこの難局を乗り越えていかなければなりません。頑張りましょう!