【日本国憲法 前文】
『日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づくものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う。』
明日、5月3日は憲法記念です。各地で憲法に関しての集会等が開催されると思います。
今、改憲問題が注目を集めています。私は、本当に憲法改正の必要があるのか、疑問を感じています。日本国憲法の底流には戦争への反省、二度と戦争を繰り返してはいけないという決意があります。今、私たちはその理念をしっかりと実現できているのでしょうか? 物事を変えるときは、一度は実現させて、実現した時に起きる問題点を修正していく。これが順序ではないでしょうか?一度も実現させないまま、古くなったと改正してしまう。このことがおかしいと思っているのです。
さて、話は少し変わりますが、私の父は、ヒロシマに原爆が投下されたとき、広島の江田島にある海軍兵学校にいました。そのすさまじい衝撃と原爆雲を体験しました。その後、広島の悲惨な状況を目の当たりにして京都に帰ってきました。
京都に帰ってきて、旧制三高への編入試験の口頭試問の時、「今度の戦争は正しかったと思いますか?」という質問をされたそうです。父は、「貴方達教育者から正しいと教えられ、それを信じて今まで生きてきました。」と答えたそうです。父が17歳の時です。この質問の答えを探すことがその時の父の生きるテーマであり、この時に「戦争は間違っていた。」ときっぱり言えなかったことを悔やんでいたそうです。
戦争は、国の利益を守るという自衛の名のもとに、私たちの知らないうちに私たちの利益に関係なく進められてしまいます。私たちが平和だと感じている時代においても、私たちが戦争に対して少しでもすきをみせると、その隙間に入り込み、いつの間にか、その実態を隠しながら私たちに迫り、私たちを戦争へと巻き込んでいきます。そして、いつのまにか戦争を正しいものへと変えていってしまいます。戦争の恐ろしさは、そこにあります。いくら施政者が「戦争は絶対にしない」「戦争をする法案ではない」と言っても、一端戦争への扉を少しでも開くと、戦争は自分の思惑をこえて、始まり、広がっていきます。
戦後74年、私たちのなすべきは、日本を戦争ができる国にするのではなく、なぜこのような戦争が起きてしまったのか、なぜ防ぐことができなかったのかをしっかりと検証することです。
私は戦争を経験することなく58年間生きてきました。これは祖父母や両親が戦争を経験して、今後日本では決して戦争を起こさせてはいけないという誓いのもと、平和憲法、9条を守り育ててきたからです。今回の改憲論が出てくる要因は、国として、戦争に対しての反省、検証がしっかり行なわれていないことであり、戦争に対しての反省があれば決してこのような議論が生まれてくるはずはありえません。
戦場で相手から銃口を向けられたとき、そして相手に銃口を向けた時、初めて戦争への真の恐怖、戦争の愚かさを感じるのだろうと思います。そして相手に向けた銃の引き金を引いたとき、その時、殺された人、殺した人、いずれもがその人たちがこれまで築き上げてきたものを全て失ってしまう。でもそれでは遅すぎます。
想像してみてください
愛する人、愛する子供、孫が戦争に行く姿を。そして戦場で人を殺し、そして殺される姿を。
想像してみてください
愛する人、愛する子供、孫が戦争で死に、棺に入って家に帰ってくる姿を。
その時の悲しみ、絶望感を。
想像してみて下さい
仮に戦争で命を落とさなくても、愛する人、愛する子供、孫が負った心の傷を。
そして、この心の傷は決して癒すことはできません。
これらのことに対してだれが責任を持てるのでしょうか?
私たち医師は、病気に対して早期に発見して、早期に治療をすることを目指しています。また、そういった病気が起きないように、社会の環境の改善を行ってきています。平和に関しても同じだと思います。戦争へ導く可能性のあるものは早期に発見し、早期に治療しなければなりません。また、戦争が起きない環境もつくっていかなければなりません。これが私たちの医療に従事するものの使命です。
戦争をすることでだれが喜ぶのでしょうか?私たち国民はだれ一人戦争を望んでいません。
にもかかわらず、なぜこんなにも急いで、戦争法案を成立させようとするのか。なぜ平和憲法、9条を壊そうとするのか。私たちは想像できません。
想像してみてください。
武力ではなく、平和憲法9条によって世界が平和になる姿を。そして心からの笑顔で幸せに暮らせる世界を。私たちはこのことを望んでいます。
私たちはこれまで守り育てられてきた平和憲法、9条をこれから先も守り育て、さらに力を持たせ、実現させていかなければなりません。
最後に、父の書いた「痔のおはなし」の終わりに父の本質である詩を紹介します。ゲーテの「エグモント」の中で、クレーヘンが愛するエグモントを思って切なく歌う詩です。
よろこびと
かなしみと
あふるる思い
たちがたきせつなさに
なやみはさらず
天高くよろこびの声をあげ
死ぬばかり悲しむを
さちあるはただ
恋するこころ (栗原 佑 訳)
父はここで「常に広い世界の人民の苦しみ、なげき、あこがれ、たたかいを忘れずに、我々もまた人民の一人であることを自覚し、人民を恋するこころ。その幸せを身にしみて味わえるようになりたい。そのために、今やらなければならないことを迷うことなく進まなければならない。」と言いたかったのではと思います。
今、私たちは現行憲法の理念を実現させたいかなければなりません。そしてその憲法を私たち日常の暮らしの中に活かしていくことこそが、今、私たちのしなければならないことだと確信しています。