渡邉医院

中駿赤十字病院での思い出。

 4クール目が順調に終了して、一旦退院して自宅療養をしているとき、毎回自宅の近くの賀茂川を朝散歩することにしています。大体1時間から1時間半程度歩いています。後からiPhoneで見てみると、退院中は一日平均10km以上歩いていることがわかり、我ながらびっくりしました。まだまだ朝は涼しく、吹いてくる風も涼しくけるころには程よく汗ばんでいる状態でした。日差しはやはり強く成って、周りの人からは「日に焼けましたね。」と言われるのですが、私は「抗がん剤のメソトレキセートの影響での皮膚の色素沈着かなあ?」と少しおもっています。でも体力はアップ。ある程度体力が戻っての5クール目に入ることができました。

 退院中、自分の机周りの整理、掃除をしました。その時に「そういえば、中駿赤十字病院(現在、裾野日赤病院)にいたころの、赤十字救護員証をどこかしまっておいたなあ。」と探してみたところ、出てきました。赤十字救護員証の日付は「平成元年41日」となっていました。33年前です。ついている顔写真の私もめちゃくちゃ若いです。

 私は当時日大の第三外科(現在、消化器外科)に入局しました。そこで3年研修をして、その後、麻酔科の研修を経て、初めて関連病院に出張したのが中駿赤十字病院でした。

 今、入院中で少し懐かしくなったので調べてみました。

 私のいた中駿赤十字病院はS277月に発足したそうです。その後H97月に中駿赤十字病院から裾野赤十字病院に改称。H912月に裾野赤十字病院は増改築工事竣工となっていました。

 ネットで検索して調べてみると、写真医映っている正面玄関は見覚えのある懐かしい佇まいでした。

 私は病院の近くのアパートに住んでいました。窓からは富士山が綺麗に見えました。毎日富士山を見て過ごしていました。

 さて、中駿赤十字病院での思い出は診療だけでなく、やはり赤十字の病院、大規模な防災訓練にも参加します。その救護班の班長に選らばれたのが私です。やはり防災。怪我にも対応できなければならないということもあったのでしょう。

 私は2年ほど中駿赤十字病院にいましたが、その間2回大規模な防災訓練に参加しました。

 災害時に着る赤十字のマークがついた防災服にブーツ、ヘルメットを着けての参加です。

 56人で参加したでしょうか、場所は覚えていませんが救急車に乗っていくのですが、新幹線の新富士駅を超えていったあたりだったように記憶しています。

 現地に到着すると、運動会の時のように行進して、本部の前に来ると、「中駿赤十字病院、渡邉賢治以下〇名、ただ今到着しました。」と報告をしたり、その後の防災訓練に参加しました。ここでの訓練はあまり覚えていません。

 もう1回は、江戸川の河川敷での訓練です。

 私の役割は、自衛隊のヘリコプターに乗って必要な医薬品をなどの物資を現地に届けるといった設定でした。上流のほうまで上がって、そこで自衛隊のヘリコプターを待ちました。当区から3機のヘリコプターが飛来し、物資を輸送するヘリコプターに私は乗り込みました。その時は結構怖かったです。ヘリコプターは安定しているのかと思ったら、スッと下降してみたりして、体がムズムズしました。着陸して私は医薬品などが入ったジュラルミンのケースをもって現場までは組んで終了でした。

 私はどこでその晩ネタ化ははっきり覚えていません。ただ、近くの体育館には乾パンや非常用の食料。また寝袋などが置いてあった記憶があります。でも寝袋委で体育館で似た記憶はありません。どうしたのでしょうね。

 このように中駿赤十字病院にいたころは医療だけでなく、防災や、実際の防災訓練など、貴重な経験をさせていただきました。やはりこの時の経験が今にも生かされていると思います。