渡邉医院

入院の想い出。「笑顔の子供たち」

 昨日の雨のおかげか、病室の窓から見える木々たちの若葉、美しく輝いています。命の力を感じます。同じ窓から見える景色、どんどん緑も濃くなり、変わっていくのだなあと思います。

 さて、これまで私が経験した4回の入院に関しての想い出をお話しさせてもらっています。今回はその第二弾です。1回目はとても痛い話でしたが、今回もちょっと痛い話もあります。よろしくお願いします。

 今回も走り高跳びでした。中学3年生の時に友達と草野球チームを作って試合をしていた時、ホームに滑り込んだ時に左膝に痛みを感じました。この時にすでに左膝の半月板の損傷を起こしていたようです。直ぐに痛みもとれ試合も続けたので、あまり気にせず過ごしていました。それの本格的な悪化です。

 走り高跳びを飛び終わった後、立ち上がろうと思っても、左膝が曲がったままで動かない。伸ばそうとすると、とても痛くて伸ばすこともできない。そんなことで、今回も第二日赤に入院することになりました。

 さて、いざ入院となると、高校生にもなると一般の人と一緒の病棟に入院することになっていました。でも病室がない。そんなことで、小児科病棟に入院させてもらうことになりました。

 痛みも少し落ち着き、テレビでも見に行こうかと、談話室?プレイルーム?でしょうか、言ってみると、小さな子供たちが、楽しそうに笑顔で遊んでいました。こんな感じの会話があったように記憶しています。子供「お兄ちゃんどうしたん?足が悪いん?一緒に遊ぼうか?」私「足が悪いからちょっと無理かなあ。」。子供「そうか。お兄ちゃんも早く良くなりや。」と。こんな感じだったかなあと思います。

 子供たちみんな、ここでは笑顔でみんな楽しそうにしているけれど、一人一人病気を持っていて、その病気と毎日戦っているんだなあと感じました。

 さて、そのころようやく関節鏡での手術が始まったばかりの頃だったと思います。整形外科の主治医の先生は、「まだ高校生。若いし、今回はまずは手術をしないで保存的に治療していきましょう。」と言われました。そしてしばらくの間、杖を突いての生活になりました。

ここで一つ自慢させていただきたいことがあります。それは、高校に入ってまだ半月板を完全に損傷する前のことですが、陸上部の先生から声をかけられました。先生は、そのころ京都の国体の選手のコーチをしていたと聞いていました。その先生から、「陸上部に入って、頑張ってみないか?君なら相当の成績を残すことができる。」という愛用でした。突然のことでびっくりしましたが、とてもうれしく、心躍りました。でも、そのころから少し膝に不安があったこと、また、なんとなくですが、医学部の受験も考えていたので、踏み切ることができずにお断りしてしまいました。今から思うと、ここで一発青春を謳歌しても良かったなあと思っています。最後に先生が、「君ならどのスポーツをやっても優秀な成績を残せるよ!」と言って下さりとてもうれしく、これが私の自慢です。

 そんな私が、スポーツもできずに杖を使っての生活。しばらく荒れた生活を送ってしまいました。そんな私を変えたのが父の言葉でした。「お前の悔しい気持ちはよくわかる。でもおまえを生んで育ててくれたお母さんが、今のお前の姿をどう思ってみているか、考えたことがあるか!」でした。その言葉で自分を取り戻すことができました。

 そうなると、私の世界が一変しました。今まで気が付かなかったことが目に飛び込んでくるようになりました。私と同じように杖を突いて歩いている方、車いすで移動されている方、そして障害がある方々等、今まででも本当は見えていたはずだったものが見えていなかった。自分はこれまで何を見てきていたんだろうと感じました。自分が経験することで、自分自身の世界が一つづつ確実に広がっていくんですね。

 できれば怪我や病気、入院などはしたくありません。でもそのことでこれまで、私の生き方をどんどん変化させてくれて来たことも事実です。私にとってとても大切な時間でした。   

 次回3回目の入院につづく。