渡邉医院

父との想い出。

 今日、38日は父の命日です。11年前の今日、父はなくなりました。

 父の一周忌を行った次の日に東日本大震災が起きました。父の死、東日本大震災、ともに忘れることのできない3月です。また、父は桜が咲くのを楽しみにしながら亡くなっていきました。美しい桜の花の開花と共に、父の死を思い出します。

 さて、私にとって父の存在は、なんとなく近づき難い存在でした。話しかけていいものかどうか。父と話しをする際は朝、学校に行く前に「今日、帰ってきたら話を聞いてもらえますか?」とアポを取っていたような記憶があります。
 そもそも父は京都に帰ってきて祖父の肛門科を継承するまでは、山梨県の甲府市の市立病院で外科部長をしていました。朝早く出かけて、夜遅く帰ってくる。京都に帰ってくるまでは、私の生活の中には父はあまりいませんでした。母と私と妹の3人の生活だったような気がします。
 小学生のころ、小学校に提出する書類の保護者名を書くところに、母は自分の名前を書いたそうです。そうすると学校から「保護者の欄にお母様のお名前が書かれていますが、お父様はどうされているのですか?」と聞かれたそうです。母はその質問に、「私の子供をいつもみて、保護しているのは私です。夫は経済的に私たちの生活を守っているので、子供の保護者は私です。」と。ウーンわかるような気もしますが、学校からは保護者の欄にはお父様の名前を書いて提出してくださいと言われたそうです。こんな感じで、京都に帰ってくるまでは、母と私、そして妹の3人の生活といった感じでした。ですからあまり父とは話すことがありませんでした。

 たまに、母のいない日に、学校の帰り道、父が勤務している病院の医局に行って、父と一緒に病院の近くの食堂に行って一緒に食べたことがあります。病院の前のうどん屋さんだったか、そこで牛丼を食べたのを憶えています。たまに休みの日に父がいるときは、キャッチボールや、その時買っていた甲斐犬の散歩に行ったぐらいかなあと思います。一緒に旅行に行ったことも有りません。まあ、これが医者の家庭かなあと思っています。

 そんな父と、一番頻回に会話をしてかかわったのが、高校生の時です。

 スポーツが大好きだった私が、左の膝を怪我をして、しばらく杖を突いて歩いていた時がありました。その頃はまだまだ若かったので、「スポーツが出来ない足なんかいらない!」と言ってストーブを蹴飛ばしたりして、少し荒れていた時がありました。そんな時、父が一言、「お前の悔しさは解らないが、お前はそんなお前の姿を見ている母親の気持ちがわかるのか!」と。この一言、頭を思いっきりガーンと殴られたような気がしました。自分勝手だった私をしっかり見つめることが出来ました。その言葉の後は、自分の気持ちを抑えることが出来るようになりました。

 そのような私を見て、毎週日曜日には嵐山にボートを漕ぎに行くようになりました。少しぐらいの雪の日も行きました。毎週行くので、船頭さんたちにも覚えてもらえるぐらいになりました。

 父は海軍兵学校に行っていました。ボートの漕ぎ方は抜群。オールの水への入れ方、かきかた、そして水からの出し方を、しっかり教えてくれました。

 私自身もボートの漕ぎ方も上達して、かなり上流へと行くことが出来るようになりました。ところどころ、岩場に入って休憩したり、そこで咲いているのスミレの花を見つけたりしました。そのスミレを母に持って帰ったり。そのスミレの思い出が母に「スミレの便り」というエッセイを書くきっかけになりました。

 今でも、渡邉医院の中庭に小さなスミレが咲きます。そんな時はその時のことを思い出します。

 ボートを漕ぎ終えた後は、毎回父と二人で昼食を摂りました。何ともない会話をして過ごす。なんとなく、父と近くなった気がしたものです。

 こんな風にして、父との繋がりが強くなったのを、今思い返します。