渡邉医院

被爆75年、核兵器のない世界を求めて!

 今日、86日は広島に原爆が投下されて75年を迎えます。広島では平和記念公園で原爆死没者慰霊式・平和祈念式」が営まれました。私たち国民の核兵器廃絶の願いが込められた1日です。世界で唯一の被爆国である日本。核兵器禁止条約への署名・批准を私たちはしっかりと国に求めていかなければなりません。

 核兵器廃絶に向けての画期的な出来事が3年前の2017年の7月におきました。 それは、77日に国連で「核兵器の禁止に関する条約」が採択されたことです。122か国の賛成で採択されました。
 条約の前文には、「核兵器使用の犠牲者(ヒバクシャ)と核実験の影響を被った被災者の受け入れがたい苦悩と被害に留意し」という一節が明記されました。国連での採択の結果をみると確実に核兵器廃絶への時は刻まれていると思います。

 この時の条約で具体的に何を禁止したかですが、核兵器禁止条約は前文と全21条から成り立っています。第1条で、核兵器にかかわる主要な活動のほとんどを明確に非合法化しています。そして、第6条 被害者に対する支援及び環境の修復という条文があります。
 その1項に「締約国は、自国の管轄下において核兵器の使用または実験によって影響を受けた個人に関して、適応可能な国際人道法及び国際人権法に従って、差別することなく、医療、機能回復訓練及び心理的支援を含む年齢及び性別に配慮した支援を十分に提供し、その社会的かつ経済的な包摂を提供する。」とあります。
 日本がこの条約に参加すれば、広島・長崎の被爆者への援護施策を手厚く行うことが条約上の義務として国際的に求められることになります。

 こういった国際的な核兵器廃絶の流れのなかで残念なことに、唯一被爆国である日本の日本政府の対応は「我々はこの条約の構想に反対である。だから会議には参加しない」と発言して会議の場から退席してしまいました。しかし、この会議では、日本政府が退席した後の席は空席として残され、
 そこに「折り鶴」がずっと置かれていました。その折り鶴には「Wish you were here」(あなたがここにいてほしい)とかかれていました。

 唯一被爆国である日本政府の姿勢として、別所浩郎国連大使は、交渉会議に参加せず禁止条約採択をうけて、「署名することはない」と発言しています。
 以前、長崎での「原爆の日」に被爆者の方が、安倍総理に「あなたはどこの国の総理ですか?」と問うたことに象徴されるように、私たち国民の核兵器廃絶への願いと日本政府の意識には大きな隔たりがあると思います。私たち国民の方が先を歩んでいます。
 日本政府を条約に参加させるためには、国内で核兵器禁止条約参加の声を圧倒的な声とし、政府、議会に迫ることが必要です。
 今年8月に開催された原水爆禁止2020年世界大会はオンラインで開催されます。新型コロナウイルス感染拡大等、社会がどんな状況にあっても、私たちは核兵器廃絶にむけての運動を進めていかなければならないと思います。

 さて以前にも紹介したことがありますが、私の父は、広島に原爆が投下された時、江田島の海軍兵学校にいました。ここでの状況を父はこう綴っています。

「午前815分。手洗いに向かって歩いていた時、一瞬、何かがピカッとひかりました。さほど気にも止めず10歩程歩いたでしょうか?ドーンという大音響、爆風のため、12歩後退、校舎の壁のモルタルがバラバラッと落ちました。あわを食ってもぐりこんだ防空壕の外で「見ろ!見ろ!見ろ!」と逃げ遅れた連中が騒いでいるのでおっかなびっくり、防空壕を出てみると、古鷹山(ふるたかやま)より高く、高く、天然現象と思える入道雲が、モクモク、モクモク、上へ上へと成長していくのです。その雲の下でこの世の地獄が現出しているとはつゆ知らず「ガスタンクの爆発」が当時17歳で海軍兵学校の最下級生であった私が考える事の出来た、最大の爆発でした。」

 今から思うと残念ですが、私は生前父と広島に原爆が投下された時の状況やその後の悲惨な広島に関して全く話す機会はありませんでした。ですから、私は、父がその時のことを思い出して書いた文章をみてその時の父の思いを想像するしかありません。
 直接被爆された方の体験を聞くことは今後段々難しくなっていくと思います。でも被爆された方々のその経験をこれからもしっかり引き継いで、後世に伝えていく義務が私たちにはあると思います。

 新型コロナウイルスと違い、核兵器は私たち人間が自らが生み出した非人道的兵器です。であるのであれば、必ず私たち自身の手で、世界から核兵器を全て廃絶することは可能です。
 私たちは世界から核兵器がなくなり、核の脅威のない平和な世界への道をしっかりと歩んでいかなければなりません。