渡邉医院

今、母と関わるなかで

 京都に帰ってきたのは私が34歳の時。父が病に倒れて急遽京都に帰ってきた。それからもう26年。今年の2月で私は60歳。還暦を迎えた。

 京都に帰ってきたころはまだまだ私は若かった。長男が生まれ、5か月の頃。父が脳梗塞で倒れたが、父の看病は母が見てくれていた。診療所での診察や手術で目いっぱいと言うこともあったが、父や母の生活にはあまり関心を持つことはなく、自分たちの家族のことだけを考えていた。その頃はそのことに何の疑いも持たなかった。

 今、母は認知症が進むなか一人で暮らしている。デイサービスやショートステイを使いながら暮らしている。ショートステイの日以外は、私は診療所に仕事に行く前に、毎日朝6時半ごろに母の家に行き面倒をみている。
 そういう生活をしている中、ふと母のこれまでの人生を顧みることがある。母は自分がしたいことが本当にできていたのだろうか?と。

 母は父と結婚して松本で暮らしていた。その頃私が生まれた。父の移動で私が3歳の頃に山梨県の甲府市に住むことになった。京都に帰ってきたのは私が小学5年生のころ、大阪万博が開催されていた夏の頃だった。父型の祖母が癌でなくなったあと、祖父が一人で生活し、渡邉医院を守ていた。そんな祖父を支えるために父が京都に帰り、肛門科渡邉医院を継ぐことを決心したからだ。
 京都に帰ったきた後は、母は祖父の面倒をみたり、自分の親をみたり、また親戚の叔父や叔母の面倒も見ていた。そんな生活の中、時々冗談で「私の人生は看病の人生だ。」と言って父を困らせ、父は「そんなこと言わないでくれ。」と。

 父が脳梗塞で倒れた時、祖父も心筋梗塞で入院。父と祖父の面倒を見るために二つの病院を駆け回り、そして、京都に帰ってきたばかりで、何もわからずにいる私を助けるために渡邉医院にも仕事に来ていた。
 私も京都に帰ってきたばかりで、渡邉医院のことでいっぱいだったこともあって、母の生活に目を配る余裕はなかった。
 祖父が亡くなった後は、父をみるだけになり、毎日父と一緒に渡邉医院に来ていた。食事は父と母と二人で。たまに私も加わることはあったが、あまり父と母の生活に寄り添うことはなかった。

 そんな生活も父が亡くなってからは母一人の生活になった。たまに母と一緒に食事をしたりはしたが、母を一人っきりにすることの方が多かった。
 そんな生活が数年たったころから母は認知症になっていった。はじめの頃は、まだ一人で診療所に来て受付をしていたが、段々一人では診療所に来れなくなり、また受付の業務もできなくなっていった。
 認知症は始まると一気に進んでいくんだなあと感じた。今は、私のことがどこまでわかっているかわからない。でもいつも合うと笑顔で迎えてくれる。

 そんな母と関わるようになって、最初の頃は、母を私の世界に引き戻そうとしていた。「認知症が進んでいく母」という現実を受け入れるだけの気持ちの余裕がなかったのだと思う。そうすると、「それはダメ」、「それはしてはいけない」、「それは違うでしょ」と母を自分の世界に戻そうとするとすればするほど、母を否定することになってしまった。またそのことで私自身もイライラしたり、気持ちがマイナスに向いていってしまった。そんな時ふと、「私自身が母の世界に入っていけばいいのでは。」と思い、そうすることに決めた。そうすると、今までは母の否定であったのが、「そうだね」、「そうしよう」と母の肯定にすべてが変わり、ガラッと生活が変化した。そのことで、「認知症が進む母」という事実を受け入れることが出来るようになり、私の心は優しさを取り戻すことができた。

 母は、可愛らしく、そして素敵に認知症になっていると思う。

 認知症が進む母と関わることで、私自身すごく心穏やかに、そして優しくなれたと感じる。

 一緒に食事をしたり、時々コンサートに行ったりもする。コンサートでは、体を少し揺らしながら、手でリズムをとりながら楽しそうに演奏を聴いている。
 また遊んでいる子供たちを優しい眼差しで、そして優しい笑顔で見つめている。時々こんなにも笑うかと思うほど顔をクチャクチャにしながら笑っている。そんな母の笑顔が私は大好きです。

 微笑みながら私を見る母。その微笑みはいつも、そしてどんな時でも母親として私を見守ってくれている。

 そんな母の笑顔をこれから先も見続け、そして守るために私たちは何をしなければならないのか。自分の意思を示せず、そして自分自身の権利を自分で守ることが出来ない母の権利をどう守っていかなければならないのか。私たちはしっかり考えていかなければならない。そのことが、これまで、そしてここまで私を育ててくれた母へ私がしなければならないことだと思う。