辛い時、辛いと言えていますか?助けて欲しい時、助けて欲しいと言えていますか?
12月14日に、きょうされん京都支部主催のきょうされん第41回全国大会in京都一周年記念の集い「ひとりぼっち」をつくらない社会をめざしてに参加してきました。そこで感じたことをお話したいと思います。
私自身「ひとりぼっち」にはならないと思っていました。でも自分自身が知らず知らずのうちに、自ら「ひとりぼっち」になってしまう状況になりかけていたことに気が付きました。
私の母は、85歳です。3年ほど前から認知症が進み、今はかなり進行しています。ひょっとしたら私のこともあまりわからないのではないかと思います。と言うのも、母と一緒にいるとき、よくこんなことを母は言います。「あなたのお父さんとお母さんはどうしているの?」と。
母が認知症になった時、私はこれまで私を育ててきてくれた母を、これからは私が見なければならないと思っていました。介護保険も使わずに、母の自宅でみていました。母は一人暮らし。診療している際も自宅にいる母のことを気にしながらの生活でした。
そんな危うい状況を見ていた友人が、「今の先生の状況をみて、お母さんは喜んでおられるでしょうか?それを望んでおられるでしょうか?」と。介護保険を使って公的支援を受けたほうがいいとアドバイスしてくれました。その言葉に私は目が覚めました。母のことを気にしながらの診療もよくない。今の状況で母をみていることは、母のためにもならないと思い、介護保険を申請して、デイサービスなど公的支援を利用することにしました。
危うく私自身を、そして母を「ひとりぼっち」にしてしまうところでした。
そんな時、今年の1月に母が顔のヘルペスになってしまいました。痛みがあるのと、顔のヘルペスなので瞼がパンパンに腫れあがり目が開けられなくなり、見えない状態になってしまいました。自分で歩くことも、食事を摂ることもできなくなってしまいました。毎日がトイレの介助、食事の介助に追われる日々になりました。
そんなこともあって、私も、仕事は何とか続けられましたが、まったく身動きが取れない状況になってしまいました。年齢的なこともあって、回復には時間がかかりました。
このように、私たちは不安定な社会、いつ今の生活が崩れてもおかしくない、そんな社会に生きているんだなあと実感しました。そして今の社会は、日常の生活が病気や災害などで、今の状況が崩れた時、自分たちで何とかしろ、地域で助け支え合え、どうしようもなくなったら国が最低限の保障をしてやる。国を当てにするな。といった、自己責任論を振りかざして、社会保障制度の理念を根本から変えてしまった、そういった間違った社会保障の理念のもとで、私たちはいつ今の生活が崩れてもおかしくない社会の中で、危うい、不安定な生活を送っているんだなあと感じます。
今はもう元気になって、デイサービスにいったり、ショートステイに行ったりしています。
母はいつも素敵な笑顔を見せてくれます。小さな子供を優しい眼差しで見つめたり、一緒にご飯を食べているときなど、こんなに笑えるかと言うほどに、顔をクチャクチャにして笑う時もあります。こんな母の素敵な笑顔、優しい眼差し、私は大好きです。
もし、私が一人でみていたら、そんな母の笑顔を見続けていることが出来ただろうかと思います。きっと私も、母も笑顔のない、暗い生活を送っていたに違いありません。自分自身を、そして母を「ひとりぼっち」にしてしまっていたかもしれません。
今の社会、辛いとき辛いと言えているでしょうか?助けて欲しい時助けてと言えているでしょうか?今の社会、辛いとき辛い、助けて欲しい時助けてと言えない社会になってしまっています。でもこのことは間違っています。なぜなら、私たちは辛いとき辛いと言う権利。助けて欲しい時助けてと言う権利があります。そして、そのことを憲法が保障しています。でも今その保障が十分ではありません。私たちは私たちが持っている権利を、憲法が保障している権利を国に実行させるように取り組んでいかなければならないと思います。
今日も母は素敵な笑顔を見せてくれています。なんか可愛らしく、素敵に認知症になっていると感じます。
これから先も素敵な母の笑顔を見続けることが出来るような社会そして、誰も「ひとりぼっち」にさせない社会にしていきたいものです。