渡邉医院

五山の送り火

 明日816日は五山の送り火。

 父が亡くなった9年前の8月。母は父の死に何か思いがあったのか?自分自身何かスッキリしない思いがあったのか?「今年は五山の送り火の日に、大文字山に登る!そして元治さんを送ってくる!」と強い決意を。その頃は母76歳。一人で登るのは心配だったのでその頃高校生だった私の息子と一緒に登ることとなった。父の戒名を書いた護摩木を持って登った。年齢的にもしんどかったのではないかと思うが、息子と一緒に登り切り、火床で護摩木を焚いていただき降りてきた。母は、「やっと元治さんを送ることができた。」と話をしていた。

 父が脳梗塞で倒れた後、母はずっと一人で父を介護してきた。父が突然家の帰り道で腹部の動脈瘤が破裂してなくなるまで、診療所にも一緒に来ていた。母は診療所で受付の仕事をしている間も常に父のことを気にしながらの仕事だった。でもいつも一緒に帰り、帰り道で二人で食事をして帰っていた母。突然の父の死に、自分の思いがスッと胸に落ちていかなかったのだと思う。

 父の死は突然に訪れました。いつもの様に診療所での仕事が終わって、一緒に帰り。家の近くのお店で食事を。二人楽しく食事をした後、家に向かう。母は先に家に帰って鍵をあけ、電気をつけて、そろそろ父が帰ってくるだろうと待っていてもなかなか帰ってこない。おかしいなと思って外に出てみると、道端で倒れている父を見つける。通りすがりの方が救急車を呼んでくださっていたようで、救急車が来て母と一緒に父を病院に搬送。母から電話があったのは、父が病院に搬送された後、その病院からだった。

 私が病院に着いたとき、母は茫然とたたずんでいて、「元治さん死んじゃったの。」と一言。今まで一緒にいて、楽しく食事をして、そして一緒に帰った。チョット先に家に帰ったそのわずかな瞬間に大切な夫を亡くした母。その時点では父の死が直ぐには受け止められなかったのだろう。父が亡くなったのは38日。葬式などバタバタと時が過ぎた後も、母は毎日診療所に来て受付をしていた。母は私に「元治さんがいなくなってから、生きているときはいつも元治さんのことを考え、気にしていたんだなあと思った。」と。

 こういった母の父への思いを何とかしたいという母の思いが「大文字山に登る!そして元治さんを送ってくる!」という決意になったのだと思う。

 今、母は認知症が進んでいる。明日の五山の送り火、炎で浮かび上がる大文字山を見て何を感じるのだろう。