渡邉医院

私の生まれた1960年を振り返り、今を考える。

 今日は私が生まれた1960年を振り返って、今を考えてみたいと思います。
 さて、私が生まれた1960年はどんな年だったのか。1960年は60年安保、安保闘争が繰り広げられていた年で、その年に私は生まれました。
 第二次世界大戦が終わり、195198日にアメリカのサンフランシスコにおいてアメリカなどをはじめとする第二次世界大戦の連合国の47か国と日本との間に平和条約(サンフランシスコ平和条約)が締結しました。この時、当時の首相であった吉田茂首相は同時に、平和条約に潜り込まされていた特約、「日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約(旧日米安全保障条約)に署名しました。このことによって、日本を占領していたアメリカ軍は「在日米軍となって、継続して日本に駐留することが可能になりました。
 この旧日米安全保障条約の改定に向けて、1958年頃から岸信介内閣によって安保法案改定の交渉が行われました。19601月に岸首相以下全権団が訪米し、アイゼンハワー大統領と会談し、新安保条約の調印と大統領の訪日で合意しました。この新安全保障条約を巡って反対運動が広がっていきました。これが60年安保、安保闘争です。
 この反対運動には、新安全保障条約に反対する国会議員、労働者、学生、市民が参加しました。その運動の焦点は、まず一つ目として、改定によって日本が戦争に、アメリカの戦争に巻き込まれる危険が増すこと。そして二つ目は、在日米軍裁判権放棄密約で、在日する在日米兵が犯罪を起こしても免責される、在日米兵犯罪免責特権に対しての批判。これらが運動の焦点でした。
 519日に衆議院日米安全保障条約特別委員会で強行採決され、この強行採決は、「民主主義の破壊である」ということで、一般市民の間にも反対の運動が高まり、国会議事堂の周囲はデモで集まった人たちで連日取り囲まれました。そんな中、615日に改定安保条約批准阻止で全学連(全日本学生自治会総連合)7000人が国会に突入する事態も生みました。このような混乱したなか、619日に新安全保障条約が成立しました。

 この写真はその当時の国会議事堂を取り囲むデモに集まった人たち、デモの状況、強行採決の際の写真です。どこかで同じ状況をみたと思いませんか。

 これは2015年、去年安全保障関連法案が強行採決されたときの写真です。もうすぐ安全保障関連法案が強行されて4年がたつんだなあと思います。安倍首相は十分な説明を国民にするといっていましたが、この4年間、十分な説明を受けた記憶はありません。

 1960年の安保闘争の時のように、国会議事堂を取り囲む人々、強行採決など、全く同じ状況を繰り返しています。60年の時は519日、去年の強行採決は919日。
 同じ19日、あえてこの日を選んだのか?偶然なのか?わかりません。そして私は196060年安保の年に生まれ、誕生日も219日。同じ19日。何となく運命的なものを感じます。
 さて、1960年の安全保障関連法案強行採決後と、4年前の2015年の安全保障法案強行採決との間には、私たち国民の意識に大きな違いがあります。
 それは、2015年の安全保障関連法案が強行採決された後も、今日までの4年間、毎月19日には全国で「戦争法廃止」の集会とパレードが今もまだ継続して行われていることです。
 京都でも毎月19日には、京都市役所前で「戦争法廃止」の集会の後、四条河原町までパレードが行われています。私も参加していました。認知症になった母親の世話をしなければならなくなったので、なかなか出にくくはなっています。

 さて、2015919日、安全保障関連法案が強行採決されるまでの運動は、安全保障関連法案を廃案にする運動でした。
 それ以降の運動は、成立してしまった、安全保障関連法、いわゆる「戦争法」を廃止する運動です。成立してしまった法律を廃止するには、国を変える、政治を変える必要があります。
 国民は今、このままではいけない、このままだと本当に戦争をする国になってしまうという危機感を覚え、政治を変え、国を変えようとして運動しているのだと思います。
 ここに1960年と2015年との間には大きな違いがあります。