渡邉医院

渡邉医院のルーツ

 12月になり、今年ももうすぐ終わります。また平成最後の年末となります。そんなこともあって、ここで、少し渡邉医院のルーツをお話しようかなと思います。
 私の父が書いた「痔のお話」から抜粋して、それに私の思いも少し加えてお話したいと思います。
 渡邉医院のルーツと題しましたが、肛門科の歴史でもあるかなと思います。
 今回は少し長い文章になっていますが、読んでいただければと思います。
 

「渡邉医院のルーツ」
 

私の祖父は渡邉元豊と言います。1901年(明治34年)生まれです。1925年(大正14年)に長崎医専を卒業した後、大阪の「痔疾全般・加藤医院」に就職しました。その当時は肛門科のことを痔疾科と言っていたそうです。肛門科の看板には「痔疾一般・〇〇医院」と書いてあったのが多かったとのことです。その時の加藤医院の院長の加藤甚七先生は、京大の外科に在局中に、マグネシン(4%マグネシウム・グリセリン懸濁液)という薬を発明し、学問的裏付けのある痔核の硬化療法を日本で初めて行った人で、長崎医大の教授として招請された時、これを断って、1924年(大正13年)に肛門科を開業したという経歴を持った方だそうです。

当時は、肛門科で開業している医師の多くは、腐蝕療法といって、いぼ痔を腐らせて落とすという注射療法とか、秘伝と称する腐蝕性塗布薬で、痔核や痔瘻を治すという方法を行っていました。そういった中で、痔の外科的療法と、痔核硬化療法という現在行われている治療法の草分けともいえる先生に師事したことは、祖父にとって極めて幸運であったといえると私の父は言っています。
 祖父はその後、加藤先生が行っていた手術法を自分なりに改良したり、マグネシンはマグネシウムの粉末が注射針に詰まりやすい欠点もあるので、4%第2燐酸カルシウム・グリセリン懸濁液を考案して、痔核の硬化療法を行いました。また、父のすすめもあって、家伝とか秘伝として秘密にするのではなく、塗布腐蝕療法の内容を日本で初めて学会で発表してそして論文にもして公開しました。痔核硬化療法に関しては、現在では、パオスクレーという5%フェノール・アーモンドオイルによる痔核硬化療法と、ジオンといって硫酸アルミニウムタンニン酸水溶液を使った四段階注射法という痔核硬化療法(ALTA療法)があります。それぞれの痔核硬化剤は保険診療で行える治療方法です。私の祖父や父が痔核硬化療法を始めた当初は、痔核硬化療法は保険では認められていませんでした。痔核硬化療法が保険診療で認められるようになった時、祖父はとても喜んだということです。自分がやってきた治療方法が認められたと感じたのでしょう。
 さて、日本大腸肛門病学会は、1988年、やっと日本医学会の一分科会として認められて、大変活発で立派な学会になっていますが、1939年(昭和14年)頃から痔疾科、性病科、胃腸科その他数科目の廃止の動きが現れ、6科目共同での廃止反対運動が始まります。この中から、痔疾科専門の開業医14名が集まり、日本直腸肛門病学会発会の打ち合わせをして、1940321日、東京で第1回の学会が開催されました。この14名の中の一人に、私の祖父も入っていました。このことが幸いして、1946年(昭和21年)にいったん廃止された科名も翌1947年に正式に復活させることが出来たそうです。でも残念ですが、今、「肛門科」という標榜科はなく、「肛門外科」という標榜になってしまっています。肛門科は、外科だけではありません。手術だけをする科ではありません。内科的に治療したり、場合によっては精神的に支えていくことも必要です。肛門科はやはり外科ではなく、「肛門科」でなければならないと思います。もう一度「肛門科」を復活させなければいけないと思っています。
 1962年(昭和37年)520日に京都で開催された第17回日本直腸肛門病学会では祖父が会長になりましたが、開業医ばかりで運営していたら、結局は尻つぼみになると考え、全国の各大学の外科の教授に参加、協力を呼びかけました。当時、私の父は信州大学医学部第2外科(丸田公雄教授)の医局長をしていました。各大学の外科の教授の名簿を祖父に送ったそうです。その頃は、京都大学の外科講堂で十分間に合う、小さな学会だったようです。

その後、東邦大学の小平正教授、社会保険中央病院の隅越幸男先生とはじめとする、数多くの学者と開業医の努力で、日本大腸肛門病学会となり、現在に至っています。
 私の父は、祖父に痔の外科的治療、注射療法、塗布腐蝕療法などを、医学部の学生時代から、休暇の時に、お尻洗い、手術の手伝いをしながら教えてもらったようです。

 ただ父は、祖父に教えてもらいながら、一方ではなにかもやもやした気持ち、不安を抱いていたようです。父の恩師の丸田公雄先生は、「定義」の大切さを父たちに徹底的にたたきこまれたようです。「ヘルニアとは?」「膿瘍とは?」「ヒョウ疽とは?」といった具合に。祖父にはそれがなかったと父は感じていました。「肛門とはなんぞや?」、「いぼ痔とは?」、「痔瘻とはなんぞや?」ということが解っていなければ、正しい痔核、痔瘻の治療ができないと考えていました。そんな頃、ロンドンのセントマークス病院の学者を中心にして出版された大腸肛門病学の本に、まったく偶然に出会い、そのとき、「ああ大腸肛門病学というのはこういうようにべんきょうするものか。」と目から鱗が落ちる思いをしたようです。このころから、父の痔の治療法がより合理的になり、特に痔核の治療法は、原則は変わりませんが、祖父からはどんどん離れていったようです。祖父は、加藤先生のレベルから勉強を始め、父は祖父が苦労して自分なりに勉強して確立してきた痔の治療法から出発。私はその父のレベルからスタートしていることになります。父が祖父を超えたように、私が父を超えることは最低限のことだと思います。今以上にレベルを上げなければ、私は全く勉強していないことになってしまいます。私もこれまで、臨床で感じていることが、正しいのかを科学的に検証したいという思いもあって、学会発表や、論文として出してきました。ホームページで紹介しているのでご覧いただければと思います。
私も、父と同じように、休みの時は京都に帰ってきて、お尻洗いや手術の手伝いなどをしながら、父の診療方法や手術方法をみてきました。直接教えてもらうというよりは、父が行っていることをしっかり見て、そこから学ぶといった感じです。


いまから25年前、父が脳梗塞で倒れたことをきっかけに京都に帰ってきて、渡邉医院を継承しました。肛門科。なくてはならない科だと思います。また、肛門という狭い部分ですが、とても奥が深い部分です。肛門科を極めていくには、より深く学んでいかなければなりません。今後もさらに肛門科が発展し、診療方法や治療方法がさらに進歩していくように頑張っていきたいと思います。父が書いた「痔のお話」の「父と私―肛門科渡邉医院のルーツ」のところの最後に、こう書かれています。「現在、私は父とともに診療にあたっていますが、父を超えていると思っています。もし私の息子が肛門科をするならば、私を超すにちがいありません。またそうであってほしいと思います。」と。