渡邉医院

油絵で個展を開いた思い出。そろそろまた絵を描いてみようかな。

 外科系の先生は、意外と絵が上手です。手術記録を書くときに手術の際の図を描いたり、また画像診断の結果をカルテにスケッチしたり。外科医はある意味、アーティストかなとも思います。
 私も大学で初めて美術部に入り、そこで生まれて初めて油絵を描きました。医者になって3年目。油絵の個展を開いた時の思い出をお話ししたいと思います。
  大学時代、私は美術部に所属していました。小さい頃から絵を描いたり、観たりすることは好きでした。でも美術部に所属するのは大学に入ってはじめてのことでした。もともとスポーツが好きで、中学時代はテニス部に所属し、友達と草野球のチームをつくって練習したり、学校も体育と部活が中心の生活でした。
 
高校になって膝を悪くしてからは部活としてのスポーツはしなくなりました。大学に入って久しぶりに体育会系のクラブに入ろうかとも思ったのですが、みんなと練習する際に自分だけ出来ないことがあると、周りに迷惑をかけるだろうと思い断念し、でもせっかく大学に入ったのだからなにかクラブ活動がしたいと思い、美術部に入ることにしたのです。
 
美術部に入って初めて油絵を描くことになったのですが、今まで一回も描いたことがないので、どう描いたらいいのか全くわかりませんでした。先輩に「どう描いたらいいのですか?」ときくと、「自分の好きなように描いたらいいよ。」とのアドバイスだけでした。
 
油絵は水彩画と違って、上から何回も絵具をのせて描くことができ、ナイフで削ることもできるので、あまり深刻に考えずに描くことにしました。
 
初めて油絵を描いた題材は机に布を立体的に敷いて、その上に花瓶に入った白い花、周りに果物、そしてワインの空き瓶でした。
 
美術部は年に3回程度展示会をしていました。医学部に隣接した附属病院内のフロアーでの院内展、夏の学外での展示会、そして文化祭です。私が描いた絵が始めてデビューしたのは、この病院内での院内展で、自分の描いた絵がいろんな人にみられることは、何となく恥ずかしいような、照れくさいような思いと、その半面、展示されることの喜びもあり、複雑な気持ちだった記憶があります。
 
さて、この初めて描いた絵ですが、気に入ってくださった方がいて、譲って欲しいとの連絡がありました。自分の描いた絵を欲しいという人がいるんだという驚きと、どうしたらいいのだろうという気持ちで、対応がわからず、先輩に聞くと、「自分が思うようにしなさい。」と油絵をかく描き方をきいたときと同じ回答。キャンバス代、絵具代・・・など考えて、でもどうしていいかわからず、結局は先輩が値段を決めてくれました。このときは本当に舞い上がっていたので、初めて描いた絵は自分で持っていたほうがよかったのかな?など後から考えましたが、自分の描いた絵を気に入ってくれて、それを飾り、観て、心癒してもらっているんだと考えると、とても嬉しい気持ちでした。
 
卒業して外科の医局に入り3年目になり、外科病棟で仕事をしていたときに、先輩が「渡辺君は大学のとき、美術部だったのだよね。一度個展を開いたら?」と急に話しかけてきました。個展なんてことは全く考えたこともなかったので、直ぐに「しません。」といったらよかったのですが、外科はチームで病棟の患者さんを診るのですが、その頃は病棟には三つの班があって、声をかけてきた先輩は班長だったこともあって、ことわることもできずに、「はい、わかりました。」と直ぐに答えてしまいました。
 
 私の入局した外科は3年目になると、麻酔科にローテーションして麻酔の研修をし、その後、関連病院に出向するという流れが常でした。幸いにも、個展を開かないかと声をかけられた時は、ちょうど麻酔科にいっていたときで、緊急の手術がはいらなければ、有る程度時間に余裕があるときでした。
 
学生のとき描いた20号の絵が3枚と、0号の子猫の絵があったので、これをもとに個展を開く準備にかかりました。
 
そのころ、自転車が好きで、20号の油絵も自転車が中心となった風景画でした。テーマを自転車にし、風景のなかの自転車だけでなく、サドルだけだったり、ハンドルだけだったり、自転車のパーツを油絵で描いたりしました。ただ自転車だけだと気分的にしんどくなるので、気分転換の意味も含めて、もう一つ0号のキャンバスに子猫の絵も描くことにしました。
 
描けるときにかかないとの思いと、油絵なので、どうしてもある程度乾かしながら描くので、1枚目を描きすすめると、ある程度その絵が乾くまで、次の絵を、また次の絵をと3枚同時に描いていたときもありました。
 
油絵は面白いもので、「ここは壁だからナイフを使って壁塗りのように描いてみようか?」とか、「キャンバスの上で色を混ぜたらどうなるかな?」などいろいろ工夫していると、自分が思っていた以上の効果がでたり、思いがけない結果がでて「やった!」と思うこともあれば、どうしても仕事が終わってからに描くことになるので、夜の製作活動になってしまい、朝おきて夜描いた絵をみると、ぜんぜん色合いが違っていてがっかりすることもありました。ただ、この間、時間がたつのを忘れ集中することの楽しみがありました。
 14枚を描きあげ、もともとあった3枚の計17枚で個展を開くことにしました。
 
そのころ私は東京の御茶ノ水駅から23分のところにある日本大学医学部付属の駿河台病院に勤務していました。そこで、御茶ノ水駅から病院までのちょうど中間にある画廊を1週間借りました。
 
新しく14枚絵を描きましたが、その絵をいれる額がありませんでした。このことを画廊の方に言うと、「倉庫にある額をどれでも使っていいですよ。」と、ぼろぼろのジーンズをはいて、みすぼらしい格好をしていたこともあるのか、優しい言葉をかけてもらいました。
 
準備は医局の先輩や病棟の看護師さんに手伝ってもらい、全ての絵を画廊にかけ、飾り終えると、なんとなく画家の個展ぽくなりさまになるのが不思議でした。原稿をかいて、活字として掲載されると、なんか立派な文章に見えてくるのと同じかなと思います。
 
ポスターを描いて、チラシをつくり、そのころは携帯電話がまだまだない時代で、ポケベルの時代でした。そんなこともあって、ポスターをもとにしてテレフォンカードを作ったりして準備をすすめていきました。
 
開催中は、病院から近かったこともあって、同じ医局の先生や、他科の先生、看護師さん、病院の職員の方々が沢山観にきてくれ、盛況のうちに終わりました。後から母に、「絵の数より、お祝いの花の方が多かったね。」と冷やかされました。
 
個展を開いているなか、一人の画商さんが来られ、0号の子猫を描いた絵を観て、「この絵を譲ってくれませんか?私が持っていたいのですが。」と声をかけられました。驚きでした。

 その絵は以前に描いてあげた絵で、個展のために一時貸してもらっていた絵だったので、譲ることは出来ない旨を伝えると、「ここに飾ってある絵は、個展が終わったらどうされるのですか?」と聞かれました。個展の後、描いた絵をどうしようかなど全く考えてもいませんでした。私が「どうするかは、まだ考えていません。」と答えると、その画商さんは、「できれば、欲しいという方に譲ってあげるといいですよ。」と、さらに「あなたが描いた絵を欲しいという方に譲ることで、あなたの絵はさらに生きてきます。」と言って、帰っていかれました。
 
初めて描いた絵を譲って欲しいと言われたときと同じ感情が起きました。自分が描いた絵を部屋のどこかに飾ってもらい、その絵をみて何かを感じてもらえる。そのことへの喜びが沸いてきました。
 
個展の最終日、欲しい絵があれば欲しい方に持って帰ってもらうことにしました。
 
そのときの絵は1枚だけ今も家にあります。そのころ、今の私の妻の誕生日に描いた0号の二匹の子猫の絵です。その絵を観るときに、今、描いた絵はどうしているかな、とそのころのことを思い浮かべます。
 
そろそろまた絵を描いてみようかな。