渡邉医院

痔で悩んだ大岡越前。大岡裁きに影響あったか?

今回は、ルイ14世、ナポレオンに続いて、肛門疾患で悩んだ有名人、第3弾として大岡越前についてお話します。

 その前にちょっと脱線しますが、テレビドラマで時代劇と言えば、ぱっと頭に浮かぶのが、「水戸黄門」、「遠山の金さん」と「大岡越前」です。今回の話を書こうと思ったとき、ふと気が付いたことがあります。それはテレビドラマの時代劇にはそれぞれ最後に恒例の決め台詞があることです。

 「水戸黄門」だと終盤に光圀は悪人一味に「助さん!格さん!懲らしめてやりなさい!」と成敗を命じるところからクライマックスが始まって、「助さん!格さん!もういいでしょう。」と言うと、助さん、格さんのどちらかが葵の御紋の印籠を掲げて最後の決め台詞「静まれ、静まれ。この紋所が目に入らぬか!こちらにおわす御方をどなたと心得る!畏れ多くも前副将軍、水戸光圀公にあらせられるぞ!一同、御老公の御前である。頭が高い!控えよろう!」と。

 また、「遠山の金さん」では終盤にもろ肌脱いで、肩にある桜吹雪の入れ墨をみせながら、「数ある花のその中で、大江戸八百八町に紛れもねえ、背中に咲かせた遠山桜、散らせるもんなら散らしてみやがれ。」とか、「この背中の桜吹雪、まさか覚えがねえとは言わせねえぜ!」と見得をきる。最後に「一件落着。」でしめる。

 でも「大岡越前」ではこのような最後の決め台詞が思い浮かびません。なかったのではと思います。大岡忠相は名奉行・大岡越前守として、「三方一両損」などの大岡裁きで有名です。

「三方一両損」の内容を少し紹介します。

 神田白壁超に住んでいた左官の金太郎が書付と印形と三両のお金が入った財布を拾いました。書付から落とし主は神田竪大工の吉五郎と分かり届けに行ったところ、吉五郎は書付と印形は自分の物だが、三両のお金は自分の物であるという証拠がないので、金太郎に持って帰らそうとしました。金太郎もお礼のお金が欲しいから届けにきたのではないと口論になり、殴り合いの喧嘩になってしまいました。長屋の大家が止めに入り、その場は一端治まりましたが、金太郎は今回の経緯を大家に話すと、好いことをして殴られては長屋の恥ということで、奉行所に訴えることにしました。

 大岡忠相は、正直ゆえに起きた喧嘩であることから、正直な二人をまずは褒め、三両は大岡忠相が預かることにしました。そしてあらためて正直者の二人に褒美をつかわすことにしました。その褒美は、大岡忠相が預かった三両に一両を足し四両としたうえで二人に二両づつ渡すというものでした。

 吉五郎は届けられた三両を受け取らず、褒美の二両を受け取り一両損をし、金太郎もお礼としての三両を受け取らず、褒美としての二両を受け取る。また大岡忠相も一両損をした。三人がそれぞれ一両づつ損をした勘定になり、これをもってこの裁きを「三方一両損」としたという話です。

 こういった、悪人を成敗するというものばかりでなく、人情味あふれた裁き、「大岡裁き」があるところからも決め台詞はいらなかったのかもしれません。

大岡忠相の話は歴史書というより、むしろ演劇や講談、落語で親しまれています。実際の大岡忠相は常に冷静で、計算の行き届いた官僚の鑑のような人物だったといいます。

 前置きがかなり長くなってしまいましたが、いよいよ本題に入ります。大岡忠相が書いた「大岡越前守忠相日記」に痔で悩んだことの記載があります。この日記は元文2年(1737年)から約14年間にわたって書かれたものです。この中に、寛保3年(1743年)1月15日から17日までの3日間に痔で悩んだことが書かれています。そこには、「痔血走り、今日まかり出ず在宅」と書かれています。1月15日の朝、肛門の激痛で目が覚め、さらに出血もしていました。2日後に徳川家の近親を連れ墓参りに行くという公用の行事があるが、出血のために休みたいと行事責任者の稲生正武に告げると、「今頃言ってもだめ」との返事が返ってきました。正武は忠相が日頃からの宿命のライバルだったようです。結局、行事は延期となったそうです。この日記の中で痔のことを書いたのはこの3日間だけだったようです。さすがに痛みと出血、そしてライバルである正武とのこともあって悔しい思いをしたので、思わず書きとどめたのでしょう。

 さて、この時大岡忠相はどんな状態だったのでしょうか。おそらく、もともと持っていた内痔核の症状が悪化したのでしょう。内痔核から出血し、さらに血栓(血豆)が詰まってしまったために激痛となったのでしょう。

 内痔核は、肛門の出口から約3㎝奥に歯状線と言って肛門と直腸との境目となる部分があり、その少し直腸側に静脈が網の目になった静脈叢があり、ここの血液の流れが悪くなって静脈瘤になったものをいいます。内痔核だけでは痛みはなく、排便時に出血したり、肛門部の違和感や、排便後もいつも便が残ったような残便感を感じたりします。また、病状が進むと排便時に内痔核が肛門外に出てきて押し込まなければなりません。

 内痔核の治療を決めるのに私たちはイギリス人のGoligherが内痔核の程度を4段階に分類したGoligher分類という分類法を使っています。第Ⅰ度は排便時に出血と肛門部の違和感。第Ⅱ度は出血以外に排便時に怒責すると内痔核が脱出してくるが、怒責をやめると自然に肛門内にもどる。第Ⅲ度は排便時に内痔核が脱出して押し込まなければもどらない。第Ⅳ度は内痔核が脱出したままで戻らない。この間、内痔核だけでは痛みはありません。第Ⅲ度以上になりますと、手術やジオンという痔核硬化剤を使っての痔核硬化療法が必要になります。

 大岡忠相は、第Ⅱ度から第Ⅲ度程度の内痔核があったのではないかと想像します。そんななか、1月という寒さや、おそらく新年を迎えて様々な公務が立て込み、ストレスが重なっていたのでしょう。こういったことが原因となって、内痔核に血栓が詰まってしまったのでしょう。ストレスがかかると血液の流れが悪くなり、さらに、血小板がくっつきやすくなって、血栓ができやすくなってしまいます。

 余談ですが、ストレスが加わって血小板がくっつきやすくなったとき、くっつきにくくしてくれるのがマグネシウムです。そうするとストレスがかかったときにマグネシウムを摂ればいいということになります。コーヒーやココアなどにはマグネシウムが含まれているので、こんな時はコーヒー、ココアを飲むといいということになります。コーヒーブレイクというのがありますが、理にかなっています。

 大岡忠相も忙しい公務の間にコーヒーなどを飲んでいればよかったのかなと思います。イメージ的には大岡忠相とコーヒー、なんかとてもあう気がします。

 さて、江戸時代の肛門の病気に関してどのように治療していたのでしょうか?痔の歴史に関しての文献では、江戸時代初期には、杉山和一(1610年~1694年)が書いた「療治之大概集」、「選鍼三要集」があり、脱肛や痔の項目があります。脱肛には百合、痔には腎愈・命門・長強・承山に灸を行っていたようです。

 もう少し時代がすすみ、華岡青洲(1760年~1835年)の時代になると、本人が書いたものはないようですが、弟子たちが数多くの書物を残しています。その中の代表的なものの中に、「瘍科鎖言」は肛門科のことが詳しく書かれています。分離結紮法といって、内痔核に針で糸を通して、結紮して治す方法も書かれていて、この方法は現在でも使われています。また、華岡青洲の使用した軟膏は300種類以上あったとされています。このころからの試行錯誤が現在の治療につながっているのだと思います。

 さて、大岡忠相が活躍していたころの治療は、やはり灸が主体で、根治的な治療ではなかったので、苦労をしていたのだろうと思います。もう少しあとの時代で、手術によって内痔核がすっきり治っていれば、「大岡裁き」はさらに鋭いものになっていたかもしれません。